石巻市の古本屋 ゆずりは書房

宮城県石巻市で古本の買取をしています

祝田の角田幸吉のことについて

地元が産んだ明治生まれの弁護士で「角田幸吉」という人物がいる。

 

wikipediaには単に「宮城県に生まれる」と記載されているが、角田が生まれ育った場所は石巻市渡波の祝田(いわいだ)浜という所である。牡鹿半島の付け根、サン・ファン館へ向かう途中にある集落である。

 

角田は私とほんの少しだけ繋がりがあって、102歳まで生きた私の曾祖母と親戚関係にあるらしい。明治29年の生まれなのでお互い同世代でもある。

 

家に祖父が記していた日記が1冊残っているが、その住所録に角田の東京の住所と電話番号が記載されていた。祖父は出稼ぎに行く機会が多かったようなので、何かあった時に頼りにしようとしたのかも知れない。

 

祝田浜は2011年の津波でやられ、今では復興した姿を見ることができるが、昭和の頃は牡鹿半島によくある山沿いの狭い漁村という感じで、言葉は悪いが大分魚臭い雰囲気の集落であった。

 

角田幸吉はそんな侘しい漁村で育った。若い頃は炭焼きの仕事を手伝ったりもしたらしい。

 

憲法学者清水虎雄が書いた「角田幸吉先生の面影」という文章がある。そこには祝田での角田の子どもの頃の思い出が少しだけ綴られている。人通りのない暗い山道を一人3キロも歩いて分校(渡波小学校祝田分校?)から帰ったそうである。

 

あの辺りの山々の様子は私も知っている。実際に歩いた経験はないが、それでも身につまされる感が沸き起こる。

 

「いつかこの浜から抜け出てやる」そんな思いを抱きながら勉学に励んでいたことと想像する。今でも石巻を飛び出した人間の中にはそんな例が多いのだから。

 

その後角田が法政大学法律科を卒業するまでのことを伺える文章は何もなく、想像するしかない。「末は博士」と考えていたか、それは分からないが、明治生まれの祝田の人がそんな野望を抱いたとすればかなり驚くべきことであると思う。地元の感覚が分かる者としては。

 

そして昭和18年、角田は本当に「法学博士」になった。弁護士活動よりも、大学講師の仕事の方が中心だったようである。

 

戦後になって、昭和22年に当時の宮城2区から衆議院議員選に立候補し当選している。その時は親戚全員が角田に投票したと聞いている。

 

昨年、仙台の古書店阿武隈書房で「石巻地方の歴史と民俗」という本を購入した。祝田浜の「両墓制」に関する資料を1冊手元に置いておきたいと思ったからである。

 

両墓制とは、遺骸を埋める墓とお参りするための墓を別々に設ける風習で、東北地方では非常に珍しいものである。おそらく祝田はもともと西日本から船で移住して来た人達で形成された浜で、その時に西日本の風習も持ち込んだものと思われる。

 

上記の本に明治期の祝田浜世帯一覧というものが掲載されていた。そこには曾祖母の父の名前の他に、角田亀吉なる名前もあった。この人物が角田幸吉の父なのかも知れない。

 

最後は何とか古本屋の話に繋げられた。ただ何となく、自分とちょっとだけ繋がりのある人物のことを記しておきたいと思っただけなんだけど。

 

※その後、角田幸吉の少し正確な経歴が判明(渡波町史より)。角田が生まれた所は大浜と言って、祝田からはかなり外れ、風越トンネル方面から万石浦の猪落という場所に向かい道を下った辺りである。父の名は角田兵四郎。幸吉は明治44年渡波小学校高等科を卒業した後は独学で大学に至ったとのこと。日々働きながらの勉学だったと想像する。

石巻にあった古本屋「三十五反」について(3)

三十五反のことをさらに調べたいと思い、この本を購入した。

「別冊東北学5 特集:壁を超える(2003年)」

 

この号に「追悼 櫻井清助」という記事があるのを知り、取り寄せたのである。

 

記事を書いた人は黒田大介という方で、90年代に櫻井氏の布施辰治研究を手伝っておられたらしい。櫻井氏と密接に関わって来られただけあって、氏の詳細な経歴を文章に綴っておられた。

 

以下、前回私が書いた記事に関して修正が必要な箇所のみ取り上げておきたい。

 

櫻井清助氏は昭和8年鳴瀬町で誕生した。新制ほやほやの石巻高校を中退している。その後の確かな経歴は不明であるものの、昭和26年に石巻を飛び出している。

 

最初は千葉県にある叔父の仕事を手伝っていたようだが、やがて東京の山谷で日々の糧を稼ぐようになったそうである。

 

昭和56年に石巻に戻り古本屋を始める。三十五反という屋号は仙台の図南荘さんにつけてもらったとのこと。

 

※私は宮城県古書籍商組合の組合員なので、図南荘という古本屋はもちろん存じ上げているが、私が石巻に戻った時にはすでに休業状態だったようである。

 

やがて平成8年に病気で倒れ、この時に三十五反も閉業したそうだ。

およそ15年という短い営業期間だったわけである。

 

6年後の平成14年に69歳で亡くなられている。

 

櫻井氏が手掛けた布施辰治研究や、豪放磊落な生き様のことについては私は語る資格を持たない。

 

私は氏から古本屋の魂だけを(それも勝手に)受け継いだ。

 

心の中で師と仰ぐ古本屋は何人かいるが、櫻井氏もその一人として仰ぎつつ、この石巻で古本屋という火を灯し続けて行きたい。

 

 

石巻にあった古本屋「三十五反」について(2)

以下「」内は「『弁護士布施辰治誕生七十年記念人権擁護宣言大会』関連資料」に櫻井氏が寄せた文章における記述である。


「1981(昭和56)年、わたしは郷里に三十年ぶりに帰ってきて小さな古本屋を始めた」

 

という記述が突然出て来た。とすれば、櫻井氏が石巻を離れたのは昭和26年頃になるので、学歴は不明なものの、20歳前後でこの町を離れているとして昭和6年前後の生まれの人となる。


「タクシーとトラックの運転手をして、アコギに小金をためて資金とした」


実は私も、石巻に戻ってからはしばらく働いて基盤固めをした。運転手の仕事ではなかったけれど。


「どうせやるなら一つ非日常的な空間をと心がけたので、比較的短時間で変わり者が集まって来た」


店内のあの独特の雰囲気は櫻井氏の計算だったらしい。


「年余にして広いところに移り、幼稚園の体育館だったとかでステージが座敷になっていたので…」


櫻井氏が座っていた帳場の後ろの方にそのような空間があったのを憶えている。
あの建物は古い倉庫か町工場を店舗に転用したのかと思っていたら、幼稚園の体育館だったとは。これで私にとって最大の謎が解けた。


「開店後少し落ち着いてから、東京時代に関心を持っていた鴇田英太郎について調べ始めた」「(鴇田の)活躍の舞台は東京である。わたしのホームグランドであった東京へ飛んだ」

 

やはり三十五反の店主は長い間東京にいたのである。おそらく神保町も回っていると思う。昭和20~40年代の古き良き東京を見ていることだろう。

 

ところで、ここで急に「鴇田(ときた)英太郎」という名前が出て来た。
櫻井氏が寄せている文章は、主にこの鴇田英太郎という人物の経歴と、布施達治との接点について綴ったものである。

鴇田は大正時代に東京で映画俳優・劇作家として活動した石巻出身の人物である。
石巻豪商の米穀商鴇田商店に生まれ、慶応大学中退後に映画俳優となり、創作活動に移った後昭和4年に亡くなったとのこと。

石巻の郷土本は結構読んできたつもりだったけど、こういう人がいたことはまるで知らなかった。

 

櫻井氏は鴇田英太郎のことを調べるために東京まで出向いて文献に当たったり、仙台で親族に直接話を伺うなどしてかなり積極的に動いている。
布施達治のことも同様に足を使い精力的に調査したのだろう。

氏がこれほど行動力ある郷土史家だったとは店に通っていた当時は思いもしなかった。
ただの頑固そうな古本屋のオヤジだと思っていたのに…。

 

※私が櫻井氏の店を知ったのは、指折り数えると開業から7年目頃のことになる。
 すでに当時の櫻井氏よりも、今の自分の方が古本屋としての業歴が少し長くなった。    

石巻にあった古本屋「三十五反」について(1)

古本業をやっていると物珍しげに見られることが多い。

以前石巻市内の買取先で、大学教授の方から「こんな片田舎でなんでこういう仕事に…」と言われたことがある。
また別の方からも、つい先日「貴重なお仕事ですね」と言われてしまった。

私は平成の大部分を東京で過ごしている。当然古本屋は見たことがある。
だから東京にいたことを話すと大体納得してもらえる。

2021年現在、石巻市内に「昔ながらの古本屋」は存在していないと思う。
だから物珍しく思われるのも仕方はないが、私自身は実は、その「昔ながらの古本屋」をこの石巻で初めて知った。

 

その店の名前は「古本屋三十五反」という。

 

三十五反とは、仙台米を江戸に運ぶのに用いられた千石船の帆のサイズのことである。(民謡由来)
石巻人であれば、この言葉を屋号に冠することに特に違和感は感じない。

 

古本屋三十五反は石巻駅前の鋳銭場という場所にあった。
私はこの店を高校1年生の時に偶然知った。

 

店構えはまるで古本屋らしくなかった。一見すると古い倉庫にしか見えない。
古本屋の看板は入口脇に出ていたが、勇気を出して敷地内まで入らないと目につかない。

開放感というものがまるでない閉鎖的な出入り口。

中もやはり倉庫のように薄暗い。
蔵書の数はかなりあったように思う。

奥の方を覗いてみるとお座敷っぽい空間があり、なぜか生活感まで感じられた。

 

私はこの三十五反に文字通り「通い詰め」た。

 

当時の私は店主と話すことがあっても二言三言程度だったので、この店主から古書について何か薫陶を受けたということはない。

しかし私は明らかにこの店から強い影響を受けた。
上京とほぼ同時に神保町に通い始めたのだから。

 

まあでも私も、三十五反のご主人は石巻という町でなぜ古本屋という珍しい商売を始めたのだろう?と思う。
およそ昭和の石巻の人間が思いつくような商売ではないからだ。

 

上京してからは帰省した時に一度だけ三十五反に行ったと思う。たしか平成一桁の頃。
そしていつしか店はなくなり、跡地は駐車場になっていた。

 

さて私は、日本古書通信社「東北の古本屋」取材時に、古本屋三十五反が自分にとって古本屋に触れた最初であったと語った。

実際の三十五反を知っている人にとっては強い印象が残っているらしく、
「東北の古本屋」の私に関する記述を受けて「石巻 まちの本棚」さんがフェイスブックページでこのような文章を書いてくださっていた。

https://www.facebook.com/ishinomaki.machinohondana/posts/2932870970306889

(この文章を書いた方とは、今年の石巻一箱古本市の際に三十五反について少し話をしていると思う)

 

そんなこんなで、私も三十五反のことを色々調べてみたくなった。

 

ある時、石巻図書館でたまたまこんな資料を見つけた。

「『弁護士布施達治誕生七十年記念人権擁護宣言大会』関連資料」
布施辰治資料研究準備会編(2001年刊)

 

ここで「布施辰治」の名前が出て来る。石巻でも知らない人は多いのかも知れない。

布施は明治13年石巻の蛇田村に生まれ、明治法律学校を卒業して弁護士になり、中央で活躍した人物である。
ネットで調べると詳しい経歴が出てくるが、いわゆる人権派弁護士の走りに当たる人物だ。

 

「東北の古本屋」でも語ったとおり、古本屋三十五反の店主は布施達治の研究家であり、顕彰活動まで行っている。

そして上の資料に、三十五反の店主が文章を寄せているのを発見したのである。

店主自身のことについてもほんの少し触れられていたため、石巻で古本屋を始める前のごく簡単な経歴が微かに浮かび上がって来た。


古本屋三十五反の店主は「櫻井清助」という名前であった。(2へ続く)

 

日露支日常用語解 陸軍經理學校研究部編 昭和15年

主に野戦時に使用されるやり取りを、日本語・ロシア語・中国語の3言語でまとめた文例集です。太平洋戦争前夜の昭和15年に発行。珍しい本だと思います。

日露支日常用語解

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斯氏教育論 ハーバート・スペンサー原著 明治21年

訳者は尺(せき)振八という人物。原著書を訳す際、「sociology」の訳語として「社会学」という言葉を日本で初めて使用したそうです。

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