石巻市の古本屋 ゆずりは書房

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石巻の書肆「三春屋平吉」について

江戸時代の仙台は、江戸・京都・大阪の三都に次いで出版活動が盛んな地だったらしい。

 

渡邊洋一氏「仙台の出版文化(仙台・江戸学叢書)」によると、国分町十九軒と呼ばれていた場所(現在の広瀬通国分町通の交差点の辺りらしい)に複数の書肆が軒を連ねていたそうである。もっとも東京や京都のように江戸時代から今に続く書肆は仙台には存在せず、当地の出版文化は明治時代に一度途切れている。なお、藩や寺ではない民間(?)の書肆が手掛けた出版物を「町版」と呼ぶそうである。

 

ところで「仙台の出版文化」では、仙台だけでなく領内の他の地における書肆についても少し触れられている。白石、若柳、塩釜、そしてなんと石巻にも出版を手掛けた者がいたというのである。

 

渡邊洋一氏の「藩政時代仙台領の出版状況について」という論文には、石巻に「三春屋平吉」という人物がいて、嘉永6年(1853年)に「軍用太平餅引札」という刷り物を出した旨が掲載されている。

 

出版という言葉からはいわゆる「本(江戸期だから和本)」を発行する行為のことを思い浮かべてしまうが、本に限らず観光案内や広告のような1枚ものの刷り物も印刷出版に含まれる。引札とは広告のことだから、おそらく餅の宣伝チラシを刷って頒布したのだろう。

 

三春屋平吉のことをネットで調べていたら興味深い文章を見つけた。「薬史学雑誌 1986年 Vol21 No1」掲載の「金華山道碑に刻された病気予防食について」という論文である。薬の歴史と石巻の書肆の話とは一見何の関係もなさそうであるが、現在石巻小学校の正門近くにある金華山道標を建てたのが三春屋平吉で、その道標の裏面に飢饉対策として餅の製法のことを記しているというのである。

 

三春屋平吉について残っている史料は、この金華山道標に刻まれた記述と、近くの永厳寺にある過去帳しかないらしい。

 

三春屋平吉は寛政6年に石巻で生まれ、天保7年(1836年)に江戸に行き餅屋を営んだ後、4年程して石巻に戻って来たという。

天保3年に母を、天保5年に息子を、天保7年に娘を(おそらく天保の大飢饉で)亡くしたとあるから、江戸に行ったのはその影響もあることだろう。

 

金華山道標を建てたのは65歳の時とあるため、安政5年(1858年)頃であろうとしている。「軍用太平餅引札(これがどんなものかはネットで調べる限りよく分からない)」を出した5年後のことである。

 

渡邊氏の著書や論文では三春屋平吉の名前は書肆の一人として挙げられているが、私は平吉の本業は餅屋だったのではないかと想像する。

 

そして飢饉で家族を相次いで亡くしたことが、餅屋を営むことや金華山道標を建立することの原動力になったのではないだろうかと想像する。(なお、このように昔の人の心情をあれこれ推測するのは歴史論文においてはNGとされているが、この文章はただのブログなので自由に想像を巡らせてみる)

 

三春屋平吉は万延元年(1860年)に亡くなっている。その住まいは金華山道標の近くだったと伝えられているそうだが、現在ある道標は建立時と少し位置が違っているらしく、元の場所がどこだったのかネットで少し調べただけではよく分からなかった。

 


石巻小学校前の金華山道標を裏側から撮影。学校に植えられている木の枝の影がどうしても写りこんでしまうが、写真を拡大したら判読はできそうだった。

右上には「爰(ここ)仙台石巻三春屋平吉歳及六十五…」と刻まれているそうである。