石巻市の古本屋 ゆずりは書房

宮城県石巻市で古本の買取をしています

高野長英と石巻市沢田日影山について

車で国道398号を通って女川町へ向かう途中に「沢田(さわだ)」という地区がある。

山と万石浦に挟まれた場所であるため広い集落ではない。通称では、万石浦側を「表沢田」山の反対側を「裏沢田」と呼ぶ。

 

私の母方の祖父母達が戦後この辺に移り住んで来たのは、親戚に沢田駅の駅長をやっていた人がいたからだと聞いている。この駅は昭和35年無人駅になってしまったが、かつては小荷物を取り扱ったりしていて、かなり活気があったという。

 

江戸時代、この沢田地区に高野長英の母方のいとこが住んでいた。名を遠藤養林という。この人は沢田で代々医業を営んでいた家の4代目で、母親は高野長英の母の妹である。養林の母の名は古農と言った。(片倉舜「大槻俊齋」より)

 

長英は岩手県水沢の人で、高野玄斎という人の養子である。高野玄斎長英の母の兄であり、すなわち遠藤養林の母の兄でもある。遠藤家と同じく高野家も医者の家系である。

 

当時は水沢から石巻まで北上川を下って行くことができたという。川の水運が盛んだったおかげで生まれた水沢と石巻との縁談である。

高野長英が水沢と江戸を行き来する時は、北上川で舟の乗り換えをする度に沢田へ赴き、遠藤家で旅の疲れを癒したという。(稲井町史)

母の実家の水沢高野家の様子や、江戸で医術を学んでいた養林の様子などを伝えていたのではないかと想像される。

 

遠藤養林は長英とともに江戸へ医術を学びに行っている。最初の江戸行きで同行している。

 

養林は嘉永7年に45歳で亡くなっているが、その墓が沢田の日影山(ひかげやま)という場所にある。ここは万石浦を一望に見渡せる開けた丘である。

 

 

日影山の頂上には「沢田日影山経塚」があると「石巻の歴史(第7巻p437)」に書かれている。安永2年の「風土記御用書出(沢田村)」にも経壇についての記述があるそうである。この塚の上に稲荷神社があり、片倉舜氏の「大槻俊齋」には、この稲荷神社の祠に高野長英が身を隠していたと書かれている。「稲井町史」の方では折立の御室山神社に隠れていたと書かれているが、長英が蛮社の獄以降に石巻に来たとは思えないので、いずれにしても史実ではないだろう。残念ながら、この経塚への登り口がどこなのか現地に行ってもよく分からなかった。

 

遠藤養林の墓石は、いつの地震によるのか分からないが横に倒れたままになっていた。「大槻俊齋」には墓碑銘について「実参了悟士」と書いてあるが、実物を見ると「実参了悟信士」だと思われる。

 

遠藤家は5代目の時に明治維新を迎え、その時に千葉姓に改めている。おそらく養林の墓の隣にある新しい墓石が現在の千葉家のものなのだろう。

 

この沢田地区は私の母方のいとこの家がある場所である。こんな身近な場所で蘭学の歴史の一端に触れることができるとは思いもよらなかった。