最近石巻図書館で「大正~昭和初期 空撮の旅 仙台・宮城鳥人記」をいう本を読んだ。宮城県初の民間飛行士である高橋今朝治が戦前に複葉機から撮影した写真について解説を付けた本である。
その中に、私の実家がある石巻市渡波町の昭和3年頃の空撮写真が掲載されていた。実家の辺りは昔塩田があった所だが、その塩田を構図のメインに空撮写真を撮っていた。おかげで、私の実家がある場所が昭和初期にどんな様子だったかはっきり知ることができた。
この地にあった塩田は入浜式塩田と言って、潮の干満差を利用して満潮時に海水を塩田に取り入れる方式である。海と接していない部分は堀が囲んでいてそこから海水が入る。この頃実家があった場所にはまだ海水が漂っていた。
現在、石巻から女川方面へ向かうには国道398号線を通る。この道路は昭和57年まで宮城県道だった。空撮写真を見るとまだこの県道が開通していないので、旧道が別にあったことが分かる。写真によると、どうも実家のすぐ前の道路がこの頃渡波から女川へと続く道だったらしい。
※この写真には所有者がおられ、特別に承諾を得て本に掲載したということなので、ブログに写メを載せるのは控えます。
「鰐陵同窓会報 1997年40号」に佐藤雄一氏が金華山古道紀行という文章を寄せている。そこで、かつて金華山へ参詣するために万石浦の船着場へ向かうにはどのルートを辿ったのかという考察を行っておられる。
それによると、現在の伊原津から渡波の船着場へ向かうには「表浜街道(浜街道」「中街道」の2つのルートがあったそうである。
浜街道は現在の国道398号を通って途中から大宮神社の脇道に入るルート、中街道は伊原津から鹿妻方面に入り、今で言う中道に至るルートである。
浜街道をそのまま辿れば、渡波の昔のまちなかを経由してかつての船着場へ行きつく。グーグルマップを見ると、このルートに金華山道と表示が出ている。もっともこれは何をソースにしているのか分からない。
さらに浜街道を進むと水産高校の脇に出る。さらに進めば私の実家の前を通って、現在の国道398号と合流する。
中街道からはどう行くのだろうか。佐藤氏は現在の渡波小学校前の道かもしくは渡波小学校裏の道を通って渡波支所の前に至り、船着場に着くルートが推測されることを説明している。渡波小学校裏の道とはこんな道である。
航空写真を見ると、石巻線の線路を越えてうねうねと続く道があるのが確認できる。この道は現在全て残っているわけではないが、今でもこんな感じの名残がある。近年区画整理されてできた道ではないことが伺える。
中街道から渡波小学校側に抜けずそのまま進むと流留へ向かう道に至る。現在では、その後やがて国道398号に合流する。
佐藤氏は、昔は浜街道よりも中街道の方が人家が多く、金華山の参詣客にとっては安心できたのではないかと推測している。どちらのルートが金華山へ向かうメインロードだったのか結論はない。
渡波町を経由して女川へ向かうルートも昔は2つ存在したことが何となくわかった。
石巻方面から女川方面に向かって。左が国道398号、右が昔の船着場へ向かう道。古い道のため、国道と比べても遜色ない存在感がある。
別の場所から。女川方面から石巻方面に向かって。右が国道398号。
左が旧道で、途中に私の実家がある。意外にも古い道だということが分かったが、塩田に沿って自然に形成された道だと思われるので、古道というほどのものでもないと思う。