石巻市の古本屋 ゆずりは書房

宮城県石巻市で古本の買取をしています

平家落人伝説と私 続編

しばらく前のことであるが、「平家落人伝説と私」という記事を書いたことがある。私の祖父は旧宮崎町の寒風澤(さぶさわ)という山間の集落出身で、そこに平家落人伝説が伝わっているという話を以前書いた。

 

宮城県の平家落人伝説でよく知られているのは仙台市青葉区大倉にある定義山である。黒川郡大和町の升沢という地も落人伝説で知られる。そして祖父の実家があった集落にも平家落人伝説がある。「宮崎町史(昭和47年)」の「附録第一 部落誌」には、「寒風澤の早坂家は平家の落人と伝えられているから、この地に伝わる野史の一端を述べよう」とある。

 

宮城県史28に安永風土記(加美郡)が掲載されていて、そこに「賀美郡宮崎村寒風澤御足軽書出」という項目があるので、今回は前回よりも詳細に我が先祖のことを探ってみたいと思う。寒風澤御足軽のことについては「宮崎町史」にも項目があるが、今回は書出の原文に当たった。

 

寒風澤という地には出羽国へ抜ける街道があり(現在は封鎖)、御番所が設けられていた。その場所は、県道262号を抜けて寒風澤集落へ向かう途中にある山神社の辺りだという。私のご先祖達は元は農民だったが、番所が設置された時に番所足軽に取り立てられている(1683年)。全部で13家あり、足軽に取り立てられた当時の氏名は次のとおりである。

 

早坂与左衛門 持来高1貫716文 御切米1分判2切
半沢正蔵   持来高記載無し 御切米1分判15切
紺野治右衛門 持来高400文 御切米1分判2切
石山齋兵衛  持来高697文 御切米1分判2切
猪又喜右衛門 持来高586文 御切米1分判2切
猪又清吉   持来高564文 御切米1分判2切
早坂与兵衛  持来高851文 御切米1分判2切
早坂半左衛門 持来高1貫489文 御切米1分判2切
早坂治郎兵衛 持来高1貫569文 御切米1分判2切
紺野藤七   持来高569文 御切米1分判2切
猪又庄左衛門 持来高1貫210文 御切米1分判2切
猪又長右衛門 持来高197文 御切米2切
猪又平右衛門 持来高2貫652文 御切米1分判2切

 

最後の「猪又平右衛門」というのが私の先祖である。ただし祖父は本家の長女の子供で、曾祖母は早坂某という人の所から婿をとっているから、男系の先祖というわけではない。

 

上の「持来高」とはもともと所有していた土地で、「御切米」とは仙台藩から支給される俸禄である。土地を所有しながら藩からも禄をもらう「半農半士」というべき立場だったことが分かる。

 

賀美郡内の他の「代数有之御百姓書出」に苗字は掲載されていない。寒風澤御足軽に関して苗字が記載されているということは、公称を許されていたのかも知れない。不便な山間部に住まわされながらもプライドは維持され続けたことだろう。私が実際に見た感覚だと平成の初め頃までそんな感じがあったように思う。

 

上の13家の中で重要なのは、最初の早坂与左衛門家とその次の半沢正蔵家である。

 

最初の早坂家だけが9代前まで遡ることができる家で、「右(5代目)與左衛門儀、承応年(1652~1655)中、御山守相勤め候」とあって、「山守(仙台藩直轄の御山や御林の管理を行う役人)」だったことが確認できる。さらに6代目與左衛門がまだ部屋住みで「齋無太郎」と名乗っていた頃の話として「寛永十九年六月二十三日の夜(略)当所御境横目・大内源太郎殿、御境脇通御見分、齋無太郎を召し連れ」とあって、藩の御境横目に同行できる程度の立場にあったことが確認できる。早坂家が後に足軽に取り立てられるのは、これらの記録が書かれる前の頃から色々と実績があったからだろう。この早坂家は寒風澤足軽の組頭になる。祖父の実家はもともと早坂家に従っていた農民だったのだろう。

 

半沢正蔵家であるが、この家だけ持来高の記載が無く、御切米が1分判15切と他の家より少し多い。書出には「右(半沢)清七儀、先祖半庄蔵以前の名前ならびに代数ともに相知れ申さず候えども、石母田長門殿足軽にて、当所御境横目衆へ加勢のため、定番に右庄蔵相付けられ、当所に住居仕り候間」とある。つまり半沢家の先祖は元は石母田氏に仕えていた足軽で、御境横目衆の加勢をするために移り住んで来た家であり、そのため百姓としての土地は有しておらず、かつ他家よりも少し格が高いために切米が多いのではなかったかと思われる。

 

寒風澤百姓が足軽に取り立てられた理由は、山守である早坂家の長年の実績が認められていたことと、半沢家がもともと足軽だったことが考慮されてのことだと推測できる。

 

ところで上の一覧を見ると、私の先祖である猪又平右衛門家だけが突出して持来高が大きい(2貫652文)。賀美郡宮崎村寒風澤御足軽書出では平右衛門家の事績について何も記しておらず、なぜこんなに財産を持っていたのか理由を知ることはできない。

 

さてここから先は史料によらず、想像で話をする。

 

寒風澤の百姓達の生業は何かと言うと、やはり林業だったのではないだろうか。

 

広瀬川の上流である定義山や大倉では木の伐採が行われ、それを川に流して下流に送っていたという。

祖父の実家の裏手には「田川」という川が流れていて、加美町の辺りで鳴瀬川と合流する。寒風澤の辺りにも仙台藩直轄である御山があり(大倉山)、その収穫物を何らかの方法で下流に送り仙台藩に収めていたはずである。広瀬川水系同様に鳴瀬川水系でも木を流していたという記録があるのかよく分からないが、行っていたとしてもおかしくないように思う。早坂与左衛門家はその中心的存在だったのではないだろうか。

 

平家落人伝説がある黒川郡大和町の升沢にも実は「荒川」という鳴瀬川水系の川が流れており、色麻町方面へ流れ鳴瀬川と合流する。だから升沢という場所は今は大和町だが元々は加美郡との結びつきが強かったそうである。こちらのサイトでは「荒川の木流し」という言葉が使われている。升沢にも御番所があったが早期に廃止され、その後早坂林右衛門家に木流し役所が置かれたという。升沢の近くにも大倉山という山があった。

 

ここで改めて仙台市青葉区大倉の定義山における平貞義伝説について振り返ってみたい。定義山の西方寺を開いたのは早坂源兵衛という人物で(出家して観蓮社良念)、宝永3年(1706)のことである。宮城郡大倉山「風土記御用書出」の阿弥陀堂の項目には「本尊は小松三位重盛公御家臣筑後守定義守り本尊の由申し伝え候」とあって、平貞義が落ち延びて来たという話ではなく、ご本尊は平貞義の持仏であるという由来記のみが記されている。安永風土記がまとめられたのは1772~1781年のことだから、平貞義が東北に落ち延びたという話ができたのはこれ以降だと思われる(19世紀か?)。ちなみに「寒風澤御足軽書出」には平貞義のことは何も記されていない。

 

ただ、ここで共通する点がいくつかあることに気づいてしまう。「早坂氏」「木流し(林業)」そして「大倉山という地名」である。

 

つまりこれらの地にいた早坂氏は林業を通じたネットワークでつながっており、定義山の平貞義伝説がおそらく1800年代に仙台藩内に膾炙したことで、それを共有したのではないかと想像できるのである。こう言ってしまうと身も蓋もないかもしれない。ま、私は歴史にロマンを見ようとしないタイプなので。

 

写真は今も残る加美町旧寒風澤分校旧校舎。

 

布施辰治とキリスト教について

私は石巻にあった古本屋三十五反の櫻井清助氏の影響で古本屋を始めたためか、櫻井氏のライフワークだった布施辰治研究にも関心を持っているように思われている節がある。しかし私が布施辰治と櫻井氏との関わりのことを知ったのは7年前に石巻へ戻って来てからのことで、それまでは布施辰治という名前は知らなかった。

 

布施辰治という人は石巻では有名人である(櫻井氏の功績であろう)。明治13年に蛇田村で生まれ育って上京し、明治法律学校を経て弁護士となり、朝鮮独立運動に関する事件の弁護に多く携わったことで、人権派弁護士として知られることになった。2000年に放映された韓国のテレビ番組で「日本人シンドラー布施辰治」として紹介されている。

 

布施の言動に影響を与えたのは墨子の兼愛の思想であると言われていたり、トルストイの思想であると言われていたり、キリスト教であったりと色々言われているが、(私は奥さんの日蓮正宗が肝であったのではないかと思っているが)このブログでは布施辰治とキリスト教との関わりについて考えてみたい。

 

布施はキリスト教(正教会)で洗礼を受けている。その時期は、大石進「弁護士布施辰治(2010年)」によると、布施が18歳で上京し、東京神田駿河台のニコライ堂にあった神学校へ入学する時であったという(P18)。

 

布施柑治「ある弁護士の生涯(1963年)」によると、布施が神学校へ入った理由は生活の安定を得ようとしたためであったと書かれている(P19)。当時日本の正教会はロシア正教会から資金援助を受けていたため、神学校に住み込みで完全給費制で学ぶことができたらしい。もっとも神学校を出て神父として生きるということは本来そんなにたやすく決断できることではない。赴任地の教会に住まなければならないし、日本全国どこに赴任させられるかも分からない。そもそも一生を神に捧げる覚悟が求められる。

 

布施は石巻にいた時から正教会と接触を持っていたと思われる。1861年にニコライによって函館において開始された正教の伝道活動は東北地方まで南下し、1871年(明治4年)には仙台まで伝道師が派遣され、1年後には仙台の正教信者数は100名に、10年後には500名にまで広がったという。明治期における宮城県内のハリストス正教会の数は60カ所を超えていたと言われる。

 

「東北民俗第53輯(令和元年) 宮城県のハリストス正教会(一)」によると、大正時代のことではあるが、何と石巻の渡波にも正教会の伝道地区のようなものがあったとある(湊教会の一部?)。かつての宮城県はそれほどまでに正教会の勢いがあったのである。あまり知られていないが、宮城県は現在でもハリストス正教会が日本で最も多く残っている地域である。

 

神田駿河台にニコライ堂が建てられたのは1891年(明治24年)で、布施が11歳の時であり、ニコライ自身もこの時函館からニコライ堂へ移っている。だから布施が正教の神学校に入学しようとした頃には当然ニコライと面識を持つ機会もあったと思われる。実際に布施はニコライに対して威厳と神秘を感じたという。(「ある弁護士の生涯」P19)ところが布施は神学校をわずか3カ月で辞めている。

 

布施が神学校にいた時の身分は正規の神学生ではなく、あくまで候補生のような立場であったらしい。ところが神学生として正式に入学する時の儀式で、一同代表で祈祷を行うよう命じられた時にそれを断ってしまい、そのまま入学することなく神学校を去ったという。(「ある弁護士の生涯」(P19)より)

 

「弁護士布施辰治」では、布施が神学校を退学した理由について「首都の本山で内から見ると、キリスト教の理念から離れたものになっているように布施には思えたのであろう(P20)」とし「正教が自分の感性、「良心」と一致しないことに気づいたからである(同)」と記している。

しかし私には、この時布施がそこまでの強い信念をもって神学校を辞めたようには思われない。(「弁護士布施辰治」著者の大石氏はアンチキリスト教だったのだろうか)

 

もっとも、キリスト教が倫理や道徳を説くことを目的としているわけではないというのは確かである。とりわけ正教というのは、ざっくり言ってしまえば「人が神と一致する」ことを目指す宗教である。神の似姿として造られたはずの人間がエデンの園で過ちを犯したために追放されたという話は、信者ならずともよくご存じであろう。人は神の像としての姿は残しているが、神の似姿とは呼べなくなってしまっている。この似姿に戻ろうとするのがキリスト教の目的であって、愛やら何やら道徳的なことを説こうとするのがキリスト教の本質ではない(「神と人を愛することが大切である」という教えはある)。

 

キリスト教が倫理や道徳を説いているわけではないということに関しては、20世紀のリベラル派カトリック神学者のカール・ラーナーも「現代に生きるキリスト教(ヘルデル文庫)」という本の中で「キリスト教は、人間の現世的未来について何らの予言も綱領も明白な処方箋も、もってはいない。キリスト教はもともと、この人間は、現世的未来をもっていないことを知っており、したがって人間は保護もうけずに現世的未来のくらやみの冒険のうちに歩みつづけねばならぬことを、知っている。(p12)亅となかなか大胆なことを言っている。

 

おそらく布施は明治の青年として「キリスト教的なもの」に惹かれてはいたが、キリスト教そのものについてはそれほど正確に理解していたわけではなかったのではないのだろうか(今でもほとんどの日本人がそうかもしれない)。彼は正教の神学校を辞めた後、プロテスタント(聖公会)に接触した形跡があるらしい(「ある弁護士の生涯)P21)」。これはいわば宗教ジプシーとも呼べるような行為であり、確固たる信仰を持った人間の行動ではない。キリスト教初心者にはよくあることのようである。もちろん布施の後の業績に関してキリスト教が部分的にあるいは多くの面において影響を与えていたことは疑いようがないように思う。このことについては、大石進氏も1983年の「布施辰治先生三十回忌追悼会」スピーチにおいて「信仰はないけれども、少なくとも自分の行動の指針と言いますか、道徳の規準に非常に近いものをキリスト教に感じていたんだろうと思います」と語っておられて、私もそれに同意するし、神学校を3ヵ月で辞めてしまった心理もそれで理解できるような気がする。

 

最後に、布施と日蓮正宗とのことについて触れたいと思う。布施の奥さんは旧姓「平澤光子」という人で、彼女の甥は日蓮正宗総本山第66世法主の細井日達であり、その縁か光子さんの仏壇には当時の日蓮正宗大石寺の法主(第55世日府?)からいただいた婚姻詔書ともいうべき曼荼羅が保存されているという(「弁護士布施辰治」P33)。ところがこの曼荼羅に布施の筆跡による改ざんが付け加えられているらしい。光子さんの旧姓が「平澤」ではなく別の苗字であったのを、布施が「布施」と書き直しているらしいのである。つまり光子さんは当初別の男性と婚姻しており、正宗の法主から曼荼羅を頂戴したのはその時のようなのだが、いくらなんでも宗団のトップからいただいた曼荼羅に旦那自らが手を加えてしまうなど、通常の感覚では考えられない。いくら光子さんを宗教的不安から守ろうと考えたとしてでもである(私は結婚経験がないのでこの辺りはあくまで想像)。

 

布施は宗教や思想、哲学を自らの拠り所にしようとする明治期らしい人物だったようだが、具体的に何を拠り所にするかという所に関しては、定まる所がなかった人だったのかも知れない。

 

ちなみに我が家は祖父母の代から曹洞宗で、キリスト教関係者も日蓮系宗派の関係者も周囲には誰一人いません。

 

石巻市千石町にある石巻ハリストス正教会聖堂(現在の建物・背面から)にて。

石巻市渡波の大宮神社について

私の地元石巻市の渡波(わたのは)という地区に、通称「大宮神社」と呼ばれている神社がある。ちゃんと宮司が居住しており、決して小社ではない。地元では広く崇敬を集めている神社である。

 

この神社の正式名称は「伊去波夜和気命神社」という。読み方は、渡波町史では「いさりばよわけのみことじんじゃ」となっているが、宮城県神社庁のウェブサイトでは「いこはやわきのみことじんじゃ」となっており、どの読みが正しいのか昔からよく分からないでいる。(おそらく後者が正しい。)

 

この神社は江戸時代においては浜大明神や鹽竈明神と呼ばれていたらしい。渡波町史によると、社号が「伊去波夜和気命神社」となったのは明治7年のことであるという。宮城県の神社明細帳には「旧ハ浜大明神・鹽竈明神ナリト云ヒシヲ維新二至リテ伊去波夜和気命神社ト云」と書かれているそうである。渡波の郷土史家S氏のお話によると、伊去波夜和気命神社に宮司が置かれたのは明治初期の神仏分離令の時だとのことなので、この社号変更についても神仏分離令と関連があるかも知れない。中村一晴「平安期における大明神号の成立とその意義」によると、明治の神仏分離令の時に多くの神社において「明神」という号は仏教的だという理由で使用されなくなったという。また伊去波夜和気命神社は江戸時代まではただの鎮守の明神であって、正式名称など特になかったのかも知れない。

 

石巻市の渡波という町は、もともと海だった所に砂が堆積して平地となり戦国時代になってから歴史が始まった場所である。従って伊去波夜和気命神社は古くからある神社というわけではない。よそからの分祀によって成立した神社である。

 

ではどこから分祀されたのか。実は全く同名の神社が石巻市稲井の水沼という地区にある。稲井町史では「水沼の伊去波夜和気命神社の祭神は塩土老翁命であり、渡波には塩田があったので、おそらく塩田事業が始まった時に当社から分祀したのであろう」という趣旨のことを書いている。しかし前述したとおり、渡波の浜大明神が伊去波夜和気命神社と称したのは明治に入ってからのことなので、稲井町史のこの記述には少し疑問を感じる。ちなみに塩釜神社の主祭神も塩土老翁命とされているが、塩釜神社のウェブサイトによるとそのように定まったのは伊達綱村の時であり、それ以前は塩釜神社の主祭神が誰なのかははっきりしていなかったという。全く不思議な話である。

 

それはともかく、前述した宮城県神社明細帳に「鹽竈明神ナリト云ヒシ」とあるので、創建当初はともかくとして、江戸時代のある時期から渡波や水沼の伊去波夜和気命神社も塩釜神社と同系統の神社として見られるようになったと想像できなくもない。渡波の浜大明神が明治になってから伊去波夜和気命神社と称したのも、水沼の同神社のことが意識されたためかもしれない。

 

伊去波夜和気命という名称にはもう一つ謎がある。それは「和気」の文字である。石巻の歴史第4巻(P616)によると、これは古代の姓(カバネ)の一つであり、皇族系の性である。垂仁天皇や景行天皇、日本武尊の子孫に対して与えられた姓で、やがて神名や神社名として用いられるようになったが、この「和気(あるいは別)」の文字を持つ式内社(延喜式に記載があって、神祇官から幣束を受けることができる官社)は陸奥国と伊豆国に偏っているというのである。牡鹿郡の(水沼の?)伊去波夜和気命も式内社であるが、牡鹿郡にある神社がなぜ和気の字を用いているのだろうか。

 

石巻の歴史第4巻(P611)によると、宝亀4年(773年)牡鹿郡の伊去波夜和気命に神封(神社に対する封禄)が奉受されたとある。その翌年に蝦夷によって桃生城が攻撃されているため、当時の不穏な情勢を鎮めるために陸奥国が朝廷に神封を要請したのではないかとあり、その実現には道嶋嶋足の尽力があったのではないかとしている。

 

とにかく、古い神社には想像もつかないような歴史が隠されている。

 

水沼にある伊去波夜和気命神社の鳥居前にて。ご覧のとおり階段が崩れそうな有様になっているので上へは登らなかった。渡波の伊去波夜和気命神社と比べて大分荒れている。

住宅地図に残された旧金華山古道の姿

地元で古本の買取をやっていると、たまに昔の住宅地図が手に入ることがある。それらは売らずに自分用として手元保存し、個人的な調べものに使用している。

 

つい先日、1977年(昭和52年)の石巻市住宅地図を入手することができた。

 

昭和52年は私が4才だった年である。物心がついたと言えるのは大体この頃で、親に言われたのか、自分が4才児であることを強く自覚した古い記憶が残っている。

 

当時、実家の前を通る道はまだ舗装されていなかった。砂利道の両脇に側溝があった気がするが、今のようなコンクリート製の構造物ではなくただ溝を掘っただけのもので、蓋も被せられていなかった。こう想像するとかなり不衛生な環境だったように思う。ただ、この頃母に抱きかかえられながら見上げた星空はまさに降るが如くで実に美しかった。これも幼少時の強い記憶の一つである。

 

国土交通省のサイトによると、昭和45年における日本の道路の舗装率は15%程度だったそうである。昭和50年代に入ったばかりだと実家の辺りに舗装化の波は訪れていなかったことであろう。

道路:道の相談室:道に関する各種データ集 - 国土交通省

 

生まれ育った場所の昔の様子を古い住宅地図で探るのはそれなりに楽しい。昭和52年は私の祖父母世代が世帯主としてまだ現役だった頃だから、住宅地図に掲載されている氏名の中に知っている名前はほとんどない。

 

この頃牡鹿半島の辺りはどんな様子だったのだろうか。

 

前回「旧金華山古道を歩いてみた」という記事を書いたが、昭和50年代前半であればかつての旧金華山道の形跡が地図に残っていてもおかしくないと思った。

 

そうして見たらばっちり旧道の名残が確認できた。

 

(ゼンリンの住宅地図石巻市1977年94頁より、個人情報と思われる部分を本記事投稿者がモザイク処理して引用)

 

風越峠から湾に向かってほぼ一直線に下る細い道がある。この道が旧金華山道である。この頃はまだ鮮明に道が残っていたことが分かる。もしかしたら生活道として現役で使用されていたかも知れない。

 

旧道を下りた地点から道が左右に分かれている。向かって左は折浜(おりのはま)、向かって右は蛤浜(はまぐりはま)である。

 

折浜へ向かう道は旧金華山道と同様の細い道だったことが伺える。この道ではおそらく車は通れなかったであろうと推測できる。

 

反対の蛤浜へ向かう道。この道がいくらか広いのは巡礼用の道だったからであろうと思う。もっとも舗装はまだされていなかったかも知れない。

 

現在渡波(わたのは)から折浜へ向かう時は小竹浜(こたけはま)経由で車道を辿って行くことができる。しかし昭和52年の時点ではそれが叶わなかったようである。

 

 

渡波から小竹浜に至る道路がすでにこの頃存在するのは確認できるが、小竹浜から折浜方面に向かう道路はない。実際に今このルートを車で走行すると、小竹浜から折浜へ向かう道の方が後年になってから整備されたのだろうということが感覚で分かる。

 

 

小竹浜と折浜を結ぶ道路沿いに道路開削記念碑があった。そこには、陸上自衛隊の手により昭和52年から5年をかけて開通工事が行われた旨が記されていた。

 

昭和50年代が終わってからすでに40年が経過しているが、人によってはそれほど遠い昔のことではないと感じるかも知れない。この時期を過ごした多くの人はまだまだ存命であろう。

しかし時はあっという間に過ぎ去る。その当時の人々にとっては自明であったようなこともたちまち忘れ去られ、風のように流れてしまう。だからこそ、何かひっかかるものを感じたらこうして少しでも文章の形で残しておきたいと思うのである。

 

旧金華山古道を歩いてみた

 現在渡波方面から牡鹿半島に向かう時は風越トンネルを通過する。しかしこのトンネルが開通したのは平成10年とずいぶん最近のことである。それ以前は風越トンネルの上にある曲がりくねった山上の道路を通って牡鹿半島へ向かっていた。この旧道は道としては今も一応残っているが現在通行止めになっている。おそらく夜は鹿達が我が物顔で闊歩していることだろう。

 この旧道が整備されたのは大正3年のことらしい。もちろん当時は舗装道路ではなかっただろう。整備の年がなぜ分かるかというと、風越峠に「金華山道路改修工事」の記念碑が建っているからである。

 

 これがその記念碑である。

 そしてこの記念碑の近くに、戊辰戦争の時に榎本武揚艦隊が折浜に集結して風越峠を越えて石巻から物資を運んだ歴史が記されている。もっとも今ではかなり無残なあり様になっている。 

 大正時代にこの旧道が整備される前は別の道が牡鹿半島へ向かう本道だった。祝田の大浜(角田幸吉博士の生家辺り?)から風越峠を登って折浜方面へ一直線に下るルートがそれである。ちょうど今記念碑が残っている場所を境に下り道がいくつか残っている。片方が祝田の大浜へ、もう片方が折浜(ただし少し蛤浜寄り)へ下る道となる。

 

 実はこの記念碑の周辺は道が複数存在して、どの道がどこに向かうのかが判然としない。グーグルマップが示す現在位置と、「昔の人たちの峠越えは、ほぼ真っすぐに登り、真っすぐに下るという道筋をとるようである」という佐藤雄一氏(鰐稜第40号)の記述を頼りに、この道がおそらく折浜へ下る旧道だったのではないかと推測した。

 一方、祝田の大浜へ向かうのではないかと思われるのはこの道である。100年以上経過しても道としての形状はしっかり残っている

 この道を榎本武揚や土方歳三、また久米幸太郎の仇討ちで命を失った滝沢休右衛門も歩いたのである。この道は金華山へ参詣する唯一の陸路であった。地域史ファンとしてはぜひ一度歩いてみたい道であった。

 

 残念ながら大浜や折浜側からの風越峠への登り口は現在見つけることができない。地図で見る限り、途中で途切れてしまっているようであるが、いつの日か最終到達地点をこの目でみたいものである。

 

 これが現在の旧道。2011年の地震の時に崩れたものであろうか。片側斜線が完全に走行不可能になっている。

明治時代の石巻の思い出

石巻の歴史に関心のある方ならご存じのとおり、江戸時代、北上川流域の物産を江戸へ輸送するには舟運が用いられた。北上川の沿岸には多くの河港があったという。

 

もっとも舟は物資の輸送には適していたが、旅行の足としてはあまり用いられなかったらしい。北上川の周囲は山ばかりで景色が単調なため、舟旅といっても実に退屈なものだったと思われる。また舟の移動は時間がかかったため、川筋の街道を歩く方が早かったそうである。

 

以前偶然仕入れた本の中に「流域をたどる歴史二 東北編(ぎょうせい)」という書籍があった。見た目は大変地味な本であるが、北上川流域のことも書かれている。石巻についてもちょっと触れているので内容を紹介してみたい。

 

明治時代に水沢から舟で石巻へ向かった時の思い出話が、昭和30年代になり岩手県の県南新聞に掲載されたという。語り手の女性は昭和34年当時91歳。彼女が兄や姪とともに石巻へ向かったのは明治16年のことである。

 

米を石巻へ運んだついでに、渡波の塩田や稲井の採石場を見学したという。石巻の舟宿は住吉にあり、そこに渡波の女性達が魚や磯のものを売りに来て、それが大変しつこく嫌でたまらなかったと語っている。私も渡波で生まれ育っているだけに、売り込みの様子を想像するとなんだかおかしな気分になる。またメノケという魚の身が入った味噌汁を食べさせられ、嫌な思いをしたと語っている(私も魚のぶつ切りが入った汁物は苦手だが、この思い出はあくまで個人の感想ではないだろうか)。

 

まだまだ風紀がよいとは言えない時代である。渡波や川沿いの舟宿で仲良くなった女性が水沢まで追いかけて来て問題になり、ついに奥さんの方を追い出してしまったという出来事があったらしい。当時は女性に関するいざこざがずいぶんあったと語っている。

 

舟は風があれば帆を張って進むことができるが、風がやんだら舟を降りて陸上から網で舟を引っ張らなければならない。橋に差し掛かったら、帆をたたみ帆柱を倒して橋の下をくぐらなければならなかったという。とにかく石巻への舟旅は楽しいものではなかったようで、水沢に帰り着いたら飛ぶように自宅へ駆け込んだとのことである。

 

ところで水沢といえば高野長英の出身地である。高野長英の叔母が石巻の沢田で医業をしていた遠藤家に嫁いでおり、長英自身も叔母の嫁ぎ先に訪れているようだが、この縁談はやはり北上川の舟運が繋いだものだったのだろうか。

 

※この記事は、石巻かほく「つつじ野」令和6年2月16日号に掲載された拙稿を加筆訂正したものです。

 

※画像は昭和27年頃の住吉小学校付近

出典:国土地理院ウェブサイト

https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1171719&isDetail=true

今では土手ができて跡形もなくなったが、住吉小学校近くに船溜まりがあるのが確認できる。江戸から明治時代にかけてもこの辺りに舟を停泊していたのだろうか。

そして舟の停泊地がこの場所にあったことは、旭町に遊郭があったことと関連しているのだろうか。

 

石巻の書肆「三春屋平吉」について

江戸時代の仙台は、江戸・京都・大阪の三都に次いで出版活動が盛んな地だったらしい。

 

渡邊洋一氏「仙台の出版文化(仙台・江戸学叢書)」によると、国分町十九軒と呼ばれていた場所(現在の広瀬通と国分町通の交差点の辺りらしい)に複数の書肆が軒を連ねていたそうである。もっとも東京や京都のように江戸時代から今に続く書肆は仙台には存在せず、当地の出版文化は明治時代に一度途切れている。なお、藩や寺ではない民間(?)の書肆が手掛けた出版物を「町版」と呼ぶそうである。

 

ところで「仙台の出版文化」では、仙台だけでなく領内の他の地における書肆についても少し触れられている。白石、若柳、塩釜、そしてなんと石巻にも出版を手掛けた者がいたというのである。

 

渡邊洋一氏の「藩政時代仙台領の出版状況について」という論文には、石巻に「三春屋平吉」という人物がいて、嘉永6年(1853年)に「軍用太平餅引札」という刷り物を出した旨が掲載されている。

 

出版という言葉からはいわゆる「本(江戸期だから和本)」を発行する行為のことを思い浮かべてしまうが、本に限らず観光案内や広告のような1枚ものの刷り物も印刷出版に含まれる。引札とは広告のことだから、おそらく餅の宣伝チラシを刷って頒布したのだろう。

 

三春屋平吉のことをネットで調べていたら興味深い文章を見つけた。「薬史学雑誌 1986年 Vol21 No1」掲載の「金華山道碑に刻された病気予防食について」という論文である。薬の歴史と石巻の書肆の話とは一見何の関係もなさそうであるが、現在石巻小学校の正門近くにある金華山道標を建てたのが三春屋平吉で、その道標の裏面に飢饉対策として餅の製法のことを記しているというのである。

 

三春屋平吉について残っている史料は、この金華山道標に刻まれた記述と、近くの永厳寺にある過去帳しかないらしい。

 

三春屋平吉は寛政6年に石巻で生まれ、天保7年(1836年)に江戸に行き餅屋を営んだ後、4年程して石巻に戻って来たという。

天保3年に母を、天保5年に息子を、天保7年に娘を(おそらく天保の大飢饉で)亡くしたとあるから、江戸に行ったのはその影響もあることだろう。

 

金華山道標を建てたのは65歳の時とあるため、安政5年(1858年)頃であろうとしている。「軍用太平餅引札(これがどんなものかはネットで調べる限りよく分からない)」を出した5年後のことである。

 

渡邊氏の著書や論文では三春屋平吉の名前は書肆の一人として挙げられているが、私は平吉の本業は餅屋だったのではないかと想像する。

 

そして飢饉で家族を相次いで亡くしたことが、餅屋を営むことや金華山道標を建立することの原動力になったのではないだろうかと想像する。(なお、このように昔の人の心情をあれこれ推測するのは歴史論文においてはNGとされているが、この文章はただのブログなので自由に想像を巡らせてみる)

 

三春屋平吉は万延元年(1860年)に亡くなっている。その住まいは金華山道標の近くだったと伝えられているそうだが、現在ある道標は建立時と少し位置が違っているらしく、元の場所がどこだったのかネットで少し調べただけではよく分からなかった。

 


石巻小学校前の金華山道標を裏側から撮影。学校に植えられている木の枝の影がどうしても写りこんでしまうが、写真を拡大したら判読はできそうだった。

右上には「爰(ここ)仙台石巻三春屋平吉歳及六十五…」と刻まれているそうである。