石巻地方の「板碑」について
板碑といっても木の板切れに彫った碑ではない。石に刻んだもので、こういうような奴である。石巻では意識して探せば割と容易にお目にかかることができる。
この板碑というものは必ずしも日本各地に遍在しているわけではないらしい。残っている地域とそうでない地域があるそうである。石巻地方は板碑の群集地である。
「石巻の歴史 第六巻」によると、石巻市内に残る最古の板碑は真野長谷寺にある文永二年(1,265年)に建立されたもので、最も新しい板碑は文禄三年(1,596年)の水沼に所在するものだそうである。つまり板碑の建立時期は日本の中世と呼ばれる時代と一致している。
板碑を建立した目的は当初は誰か特定の故人の慰霊であったようであるが、その故人と関係がない第三者を拒むものではなく、板碑がある場所はあらゆる人々の霊魂をあの世に送り届ける「霊場」としての役目を担っていたそうである(「中世の聖地・霊場」東北中世考古学会編)この点は江戸時代に入ってから普及した「お墓」とは異なる。
板碑の始まりを知るにはまず古代の霊場について知る必要がある。「石巻の歴史 第四巻」で三宅宗議氏が石巻地方における古代寺院の創建について論じておられるので、そちらを参考に板碑の登場以前の石巻の霊場について記してみる。
東北の官立寺院は10世紀にはほとんど消滅したようであるが、平安時代に入り、主に密教系の寺院が石巻地方にも建立されるようになった。代表例を挙げると、上品山の上品山寺、中里の全正寺(現禅昌寺)、砂須浜山居の洞源院、第六天山の三国寺、金華山の大金寺、牧山の牧山寺等である。全正寺以外はみな人里離れた山上にある寺院である。
石巻地方の古代寺院の多くが山上にあるのは、つまりは比叡山や高野山と同じ立地であるということである。これらの古代寺院は山中に奥の院を構える延暦寺や金剛峯寺と同じような霊場だったのである。
霊場思想は浄土信仰とも関連がある。浄土はこの世を意味する「此岸」に対する「彼岸」であり、日常とは異なる遠い世界である。中世においてはそうした彼岸世界が人々の中で強く意識されていた。霊場に参詣することは浄土往生を望む人にとって大切なことだと考えられていたのである。
とは言え、霊場を求めて人里から遠い山中へ赴くのはやはり大変である。そのためか第六天山の三国寺はだいぶ早い時期に麓へ移転したようである。
そして古代から中世にかけての人々は容易に足を運べる身近な場所にミニ霊場ともいうべき場所を求めるようになった。それは有力者の墓であったり、経塚であったり、五輪塔等の石塔類であったりした。石に梵字を刻み仏そのものとみなした板碑もそんなミニ霊場というべき場所のシンボルであった。
江戸時代を前にしてこうした板碑が建立されなくなるのは人々の宗教観の変化とリンクしている。霊場を否定する宗派、すなわち専修念仏(専修とはそれのみを修するという意味)を唱える浄土宗や真宗、法華経のみを奉じる日蓮宗といった鎌倉仏教の台頭である。これらの宗派では彼岸的要素よりも現世利益的な要素の方が強められていた。彼岸世界という考え方は室町時代に入ってから急速に縮小するそうである。やがて死者は遠い浄土へ赴くのではなく、身近なお墓に入り眠り続けるという考え方が広まるようになる。今では高野山でも墓地化が進展しているそうである。
石巻地方では室町時代から戦国時代にかけて曹洞宗の寺院が多く建立されるようになった。再び「石巻の歴史 第四巻」で石巻の寺院史をひもとくと、ながらく天台宗の勢力圏であった石巻地方の湊に曹洞宗の松岩寺(現松厳寺?)が建立されたのが15世紀中頃で、同じ時期に湊の法山寺と真野の真宝寺も建立されている。これらもまた曹洞宗の寺院である。16世紀に入ると曹洞宗の勢いはさらに増し、16世紀後半になるとついに石巻の天台宗寺院は衰微に至ってしまう。日本人の宗教観の変化は石巻の寺院史からも伺うことがきるというわけである。
実を言うとつい最近まで 板碑など私も全く興味がなかった。だって見ても特別面白いものではないから。
しかしながら板碑は中世の石巻に生きていた人々の宗教観を現代に伝えてくれるものである。中世の石巻の人と繋がれるモニュメント、そんな意識で今後は板碑と触れ合ってみるようにしたい。
宮城県石巻市の南朝伝説について
この神社には、後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良親王(昔は「だいとうのみやもりながしんのう」と読むと習ったが、現在では「おおとうのみやもりよししんのう」と読むのが定説らしい)が鎌倉から石巻に下り、この地で一生を終えたという伝説と、親王の御霊を弔うために建てたと言う謂れが伝えられている。石巻に今に残る南朝伝説である。
護良親王は鎌倉で幽閉された後に、足利直義の命で相模原の武士淵辺義博に殺害されたというのが史実であり、鎌倉から密かに石巻まで逃れたという事実は確認することができない。ではなぜこのような伝説が石巻にあるのかというと、石巻地方の有力者葛西氏が南朝方であったためであると説明されることが多い。地元の郷土本にはだいたいこんな感じであっさりと書かれていることが多いが、なんだか分かったような分からないような説明ではないだろうか。
このブログではその辺の背景をもう少し詳細に眺めてみたいと思う。
森茂暁「南朝全史」(講談社学術文庫)によると、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇の政権は、全国をいくつかの広域ブロックに分けて地方分権的に統治しようという構想をもっていたという。それら各地方のブロックには後醍醐天皇の皇子たちが直接派遣された。これにはうまくいった例とそうでなかった例があり、征西将軍として九州に送られた懐良親王の場合は比較的うまくいった例である。太宰府の征西府は九州国家として明に認められ、対明交易を始める一歩手前までいったたらしい。後醍醐政権と九州の在地勢力の強い結びつきがうまく形成できたということであろう。
東北へは義良(のりよし)親王という人が赴いている。出向先は多賀城である。この地に陸奥将軍府を設けた。この府は東北地方だけでなく北関東をも含んだ広いエリアを管轄する、東の小朝廷とも呼べるものであった。だから陸奥の国はもともと南朝と深い繋がりがあった。葛西氏も郡奉行に補任され、陸奥将軍府による奥州支配の一翼を担う立場になったらしい。
義良新王を奉じたのは北畠氏である。陸奥将軍府による東北統治は結果的にはうまくいかず、足利尊氏の離反の影響を受けることになるが、義良親王はやがて吉野で後醍醐天皇から攘夷を受け、明治になってから後村上天皇として歴代天皇の一人に列せられることになる。
他に北陸や信州へも後醍醐天皇の皇子たちが赴いているが、いずれの地でも対抗勢力との激しい闘争が繰り広げられた。足利氏を支援する勢力と南朝の皇子たちを支援する勢力とが各地でぶつかり合った。
1338年に北畠顕家が戦死し、同じ時期に楠木正成や新田義貞らもあいついで戦死したため、南朝が起死回生を図ろうとした。この時すでに東北は足利勢のものとなり、石堂義房という武士が奥州総大将として多賀城で統治を担っていたが、東北を再度南朝の拠点とすべく、義良親王や北畠親房らが海路で東北まで向かったのである。
ところが途中で暴風雨にあい北畠親房たちの船団は四散する。常陸に上陸した親房は、義良親王が陸奥国に着いたという話を聞いて「その場所は宇多(福島県)か牡鹿か、どちらなのか知らせるように」と質す文書を発している。(実際には親王は伊勢に漂着していた)この文書は14世紀にすでに石巻地方の牡鹿湊が海路の拠点として認識されていたことを示すものとして知られている。
北畠親房たちがこの時牡鹿湊においてあてにしたのは葛西氏であろう。ここでようやく葛西氏と南朝が史実で繋がる。
石巻の佐藤雄一氏によると、この地方の板碑の年号を調べると、1343年までは南朝の年号が刻まれており、それ以降は北朝の年号になるという。(石巻文化財だより第4号)
北畠親房は上陸した常陸から東北への反撃を開始したが、東北奪還には失敗し、吉野へ戻ることになる。石巻地方の板碑が北朝年号に切り替わるのはちょうど親房が常陸から退却した時期に当たる。こうして石巻地方も完全に足利勢のものとなった。1345年には石堂義房に代わり吉良貞家らが足利幕府の奥州管領として赴任する。
さて「石巻の歴史第一巻(通史編上)」では、初めに牡鹿湊があった場所は稲井湾(真野の入江)の辺りだったのではないかと推測している。やがて鎌倉時代が終わる頃に稲井湾は湊に適さなくなり(この頃稲井が陸地化した?)御所入江(湊町の御所入地区)に湊が移転したのではないかとしている。
御所入はこういう地形をした場所である。
かつては周囲が山に囲まれた浜辺だったことが容易に想像できる場所である。ちょうど入江の向かって右側に一皇子社がある。奥の用水池の先にある道路を登って行くと牧山の山上にある梅渓寺と零羊崎神社に辿り着く。こうしてみると中世の様子がよく偲ばれる。
護良親王伝説の起源が何なのかは今ではよく分からないが、少なくとも牡鹿湊に関わる勢力と何らかの関連があったことが想像される。
※一皇子社の裏手。見にくいが、石の柵の中に砂利で固められた小さな塚のようなものがある。これが護良親王の墓として伝わるものであろうか。
宮城県牡鹿半島の歴史について
宮城県の東端に「牡鹿半島」という太平洋に突き出た半島がある。
この半島は行政単位としては石巻市と女川町に所属する。起伏が大きく平地が少ないリアス式海岸から成る半島だが、あちこちに小さな浜辺があって、そこで人々が生活している。それぞれの浜へ行くにはアップダウンの激しいつづら折りの道を車で向かう必要があるため、だいぶ骨が折れる。それでも私の子供の頃と比べるとだいぶ道路が整備された。かつては陸路ではなく主に船で浜から浜へ移動したのだろうが、私は昔からこんな不便な浜辺にどうして人々が住むようになったのだろうと不思議でならなかった。
この牡鹿半島はかつて「遠島(としま)」と呼ばれていたらしい。私は大正14年生まれの老女(女川町塚浜生まれ)から「昔は半島の方を遠島と呼んだ」という話を直接聞いたことがある。だから少なくとも戦前昭和期までは遠島という呼び方が存在したのだと思う。
1772年の「封内風土記」には「牡鹿郡の海浜、女川、十八浜、狐崎の三党を遠島と号する」と記載されているそうである。江戸時代中期には遠島は牡鹿郡の一部だったわけだが、近世初頭においては遠島は牡鹿郡とは別の行政単位だったらしい。1633年の「伊達政宗領分郡郷目録案」という文書に「郡のほか遠島」という記述があり、各郡と遠島が別々であったことが伺えるのである。また伊達家文書「慶長五年漆請取日記」という文書に「ものを(桃生)中」「おしか(牡鹿)中」という記述と並んで「とうしま(遠島)中」という記述があって、牡鹿郡と遠島がそれぞれ別のものであるように書かれている。推測するに、遠島という領域は戦国時代にはすでに存在していたのではないだろうか。
「伊達政宗領分郡郷目録案」には遠島が五十四の浜から成るとある。実は牡鹿半島の浜の数は三十六である。残り十八の浜は桃生郡の浜であろうと推測される。つまり遠島とは牡鹿半島全体を指すのではなく、各浜の漁村だけを抜き出して独立した領域として編成したものだったらしい。
牡鹿半島の付け根、祝田浜という場所に洞源院という寺がある。この寺は1061年の創建だが、明治初期までは今の場所ではなく、少し離れた山居という山の上にあった。そこに戦国時代の天文7年に建てられた石碑があり、「陸奥州牡鹿郡楊沢山住持比丘密伝云々」と書かれている。寺の所在地を牡鹿郡としており、遠島とはしていない。山居が山上の霊場であり、漁村ではなかったためであろうか。
遠島という領域はいつから存在したのだろう。大石直正「奥羽の荘園公領についての一考察(中世北方の政治と社会)」によると「遠島の成立時期を推定する手掛かりとなるような史料は、まったくない」とのことであるが、成立時期は中世初期ではないかと推察している。その構成民は、漁業や狩猟を中心とする非農業的な活動に従事する人々であったろうとしている。つまり現在牡鹿半島の浜辺に住んでいる人々の祖先は海の民であり、その起源は中世初期まで遡ると想像すればロマンが感じられる。
浜の漁村が郡とは別の行政単位で編成された理由として「弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍」というサイトでは「こうした「浜」とか「島」という特殊な行政区画が設けられたのは、そこを普通に「郡」には編成できない何らかの要素が存在したからだと思われる」と説明している。さらに「この地域は、山の民・川の民・海の民が広く存在する地域であって、普通の日本社会とは異なり、農業というよりは非農業的な生活の色彩が濃い、たとえば交易などに依存する度合いが強い社会を形成していたのであろう。」としている。
東北を代表する海の民は津軽の安藤氏(安倍氏とも)である。実は牡鹿半島の給分浜にある見明院の「風土記御用書出」という史料(ただし信頼性は低いらしい)に「先祖安藤太郎重光と申す者これ有り、俗名にて牡鹿遠島先達職相預かり罷り在り、その後右親族安藤四郎先達職を奪う可くの企てこれ有り…」という、津軽安藤氏との繋がりを彷彿とさせる記述がある。牡鹿半島の浜辺に最初に住み着いたのは津軽の安藤氏の一族であったかも知れないと想像すると、いっそうロマンが膨らむ。
※牡鹿半島の風越峠へ向かう道。今は真下に風越トンネルができたため通行止めになっているが、トンネルが出来る前はこの道が牡鹿半島へ向かう主要道だった。柵の向かいは土砂が崩れたままになっている。私がスマホのカメラを向けたら鹿が逃げて行った。
石巻市渡波にあった水産会社「丹野水産」について
石巻市渡波地区にある水産加工業者で現在一番有名な所と言えば、おそらく末永海産なのではないかと思う。この会社は令和2年に内閣総理大臣賞を受賞している。私の実家と同じ町内にある。
しかし昭和の終わり頃だと、この町内で最も知られていた水産会社は「丹野水産」ではないだろうか。
かつて工場と社長の家があった場所は今では宅地になっていて、名残は何もない。丹野水産は平成3年に倒産したからである。当時地元で結構な騒ぎになった記憶がある。会社の敷地には、なぜかドアが3つある車が何台も停まっていた。
今になって丹野水産のことを調べてみようと思っても、ほとんど何も情報が出て来ない。社史でも残っていない限り、こうした出来事は全てが風に流れ、何もかも分からなくなってしまう。だから石巻の市史でも産業に関する記録が一番弱いと聞く。
丹野水産のことが少しだけ書かれている本を見つけた。中村直人著「幻想の魚市場」である。中村氏は大学卒業後、東京で水産会社をいくつか渡り歩いておられたらしい。
私は一応水産業の町と呼ばれている所に住んでいるが、水産業とのつながりは何もなく、業界のことはほとんど何も知らない。ついでに言うと、魚介類も普段あまり食べない。
この本は業界人であれば興味深く読めるのであろうが、前提知識がない私にとっては少し読みにくかった。
丹野水産の社長(存命かも知れないので名は控える)は大手スーパーマーケットとの取引を積極的に行っていたらしい。これは今では特別のこととも思えないが、1970年代までは大手スーパーであっても魚市場から直接仕入れるのが普通で、メーカーや商社と取引することはなかったらしい。現在でも中小のスーパーは市場から直接仕入れるそうで、私の地元にもそんな店がいくつかあるのではないかと思える。
80年代の丹野社長は時代の流れに乗り、果敢に営業攻勢をかけていたようである。
丹野水産の主力商品は「赤魚」だった。この魚は名前はよく目にするが正体が知られていない魚の一つとして知られている。太平洋のものをアラスカメヌケ、大西洋のものをタイセイヨウアカウオと呼ぶらしい。そして1980年代始め頃までは太平洋物のアラスカメヌケの方が主流だったそうである。これはスーパーで赤魚粕漬の原材料として使われた。
太平洋物の身には黒い点や模様が浮かんでいる。これが嫌われるようになり、1980年代から黒味がない大西洋物の赤魚がスーパーマーケット用に流通されるようになった。
大西洋では日本の漁船は操業できない。外国船が大西洋で獲った赤魚は冷凍状態になりそのまま日本の市場まで運ばれて来る。輸入品ではあるが取引は入札である。丹野社長は、石巻の市場に運ばれてきた冷凍魚を高値で買い続けていたという。赤魚がよその港に入るのを防いで石巻で独占していたのだから、経済的な恩恵はかなりのものだったろう。
日本産の赤魚に比べ、大西洋産のものは資源量が豊富であることが分かっていた。そのため大西洋赤魚は当時水産業界の花形だったらしい。
冷凍魚であっても時間が経てば鮮度が落ちる。具体的には「色飛び」といって、徐々に色が薄くなる現象が起こるそうである。
とは言え、欠品を起こすと販売機会損失を招くばかりか、そのままスーパーとの取引が終わってしまうことにもなりかねない。だからある程度余分に冷凍魚の在庫をキープする必要があった。その量半年から1年分だというからかなりの在庫だろう。
ここでまた時代の流れが変わった。色の悪い大西洋物が増えたからだろうか、スーパーがまた太平洋物の赤魚を扱うようになったのである。
大量の冷凍魚を抱えた丹野水産は不渡りを出して倒産した。その日、漁船組合で事務員をしていた私の母は夜遅くまで帰って来なかった。
丹野水産の倒産は地元だけでなく、日本の水産業界全体で騒ぎになったらしい。大量の冷凍魚が残されたままである。相場に影響を与えることが懸念された。(結局相場の混乱は起きなかったようであるが、では大量の冷凍魚は一体どこへ消えたんだろう?)
丹野社長の起業人生は、時代の流れとともに舞い上がり時代の流れともに散って行った。昭和後期の渡波の記録として、ここに丹野水産のことを書き留めておきたい。
渡波という町は住宅と水産加工場が混在している。丹野水産があった場所もそうであった。おそらく新興住宅地だと規制がかかるだろうが、昔からこういう場所だから今さらということになってしまう。
私の家の隣も水産加工場である。牡蠣の加工がメインのようだが時々ホヤを捌いていることもあって、庭までその臭いがやって来る。これはホヤが苦手ではないはずの私でもちょっと我慢できない臭いである。こんなリアルがあると、それだけで地元の水産業を応援しようという気にはあんまりなれなかったりする。ま、こんなことを書く石巻人はあまりいないだろうな。
金華山古道について(渡波町内)
最近石巻図書館で「大正~昭和初期 空撮の旅 仙台・宮城鳥人記」をいう本を読んだ。宮城県初の民間飛行士である高橋今朝治が戦前に複葉機から撮影した写真について解説を付けた本である。
その中に、私の実家がある石巻市渡波町の昭和3年頃の空撮写真が掲載されていた。実家の辺りは昔塩田があった所だが、その塩田を構図のメインに空撮写真を撮っていた。おかげで、私の実家がある場所が昭和初期にどんな様子だったかはっきり知ることができた。
この地にあった塩田は入浜式塩田と言って、潮の干満差を利用して満潮時に海水を塩田に取り入れる方式である。海と接していない部分は堀が囲んでいてそこから海水が入る。この頃実家があった場所にはまだ海水が漂っていた。
現在、石巻から女川方面へ向かうには国道398号線を通る。この道路は昭和57年まで宮城県道だった。空撮写真を見るとまだこの県道が開通していないので、旧道が別にあったことが分かる。写真によると、どうも実家のすぐ前の道路がこの頃渡波から女川へと続く道だったらしい。
※この写真には所有者がおられ、特別に承諾を得て本に掲載したということなので、ブログに写メを載せるのは控えます。
「鰐陵同窓会報 1997年40号」に佐藤雄一氏が金華山古道紀行という文章を寄せている。そこで、かつて金華山へ参詣するために万石浦の船着場へ向かうにはどのルートを辿ったのかという考察を行っておられる。
それによると、現在の伊原津から渡波の船着場へ向かうには「表浜街道(浜街道」「中街道」の2つのルートがあったそうである。
浜街道は現在の国道398号を通って途中から大宮神社の脇道に入るルート、中街道は伊原津から鹿妻方面に入り、今で言う中道に至るルートである。
浜街道をそのまま辿れば、渡波の昔のまちなかを経由してかつての船着場へ行きつく。グーグルマップを見ると、このルートに金華山道と表示が出ている。もっともこれは何をソースにしているのか分からない。
さらに浜街道を進むと水産高校の脇に出る。さらに進めば私の実家の前を通って、現在の国道398号と合流する。
中街道からはどう行くのだろうか。佐藤氏は現在の渡波小学校前の道かもしくは渡波小学校裏の道を通って渡波支所の前に至り、船着場に着くルートが推測されることを説明している。渡波小学校裏の道とはこんな道である。
航空写真を見ると、石巻線の線路を越えてうねうねと続く道があるのが確認できる。この道は現在全て残っているわけではないが、今でもこんな感じの名残がある。近年区画整理されてできた道ではないことが伺える。
中街道から渡波小学校側に抜けずそのまま進むと流留へ向かう道に至る。現在では、その後やがて国道398号に合流する。
佐藤氏は、昔は浜街道よりも中街道の方が人家が多く、金華山の参詣客にとっては安心できたのではないかと推測している。どちらのルートが金華山へ向かうメインロードだったのか結論はない。
渡波町を経由して女川へ向かうルートも昔は2つ存在したことが何となくわかった。
石巻方面から女川方面に向かって。左が国道398号、右が昔の船着場へ向かう道。古い道のため、国道と比べても遜色ない存在感がある。
別の場所から。女川方面から石巻方面に向かって。右が国道398号。
左が旧道で、途中に私の実家がある。意外にも古い道だということが分かったが、塩田に沿って自然に形成された道だと思われるので、古道というほどのものでもないと思う。
流留渡波塩田のその後について
宮城県石巻市の渡波(わたのは)という町には江戸時代から昭和34年まで塩田があった。
この塩田は江戸時代には仙台藩における塩の約37%を製塩していた。昔の渡波は漁業と塩業の両方でかなり活気があったらしい。
昔の製塩は、濃縮させた海水を釜で煮詰めて塩の結晶を得る方法である。この製塩法は機械化により昭和30年代に終焉を迎える。日本各地の塩田がこの時期に廃止になっている。
私の実家がある場所は旧町名を明神釜という。この地名は海水を煮詰めるための釜に由来すると思われる。古い航空写真を見ると実家がある場所も昔塩田だったことが確認できる。
流留渡波塩田は昭和34年に廃止になるが、その跡地は昭和50年代が終わる頃まで何だかひどく荒れ果てたままの場所だった。今では宅地造成が進んだが、塩田跡地の開発がなぜ長い間ろくに進まないままだったのか不思議だった。
石巻図書館で「未来を拓く ふるさとの道(元市議会議員 内海忠)」という本に出会い、塩田廃止後の詳細がようやく明らかになったので、流留渡波塩田のその後の経緯をまとめてみたい。
塩田跡地の開発に向けて旧塩田業者は更正組合を結成したが、開発の目途がなかなか立たなかった。そこに東北開発株式会社という会社が買収に乗り出した。
東北開発株式会社とは昭和11年に日本政府が設立した国策会社で、事業目的は東北地方の殖産興業である。民営化されたのは何と昭和61年である。この会社が塩田跡地に精油基地を造ろうとした。地域開発のチャンスということもあり、塩田跡地のほとんどを買収することに成功した。
精油基地の建設には塩田跡地だけでは面積が足りず、万石浦の一部も埋め立てる必要があった。ところがボーリング調査の結果、万石浦の海底は地盤が緩いことが分かり、造成費が足りなくなって精油基地の話は立ち消えになった。話が違うということで、塩田の旧所有者達が土地の払い下げを東北開発株式会社に対して求めた。このまま昭和40年代に入る。
昭和45年になって、東北開発株式会社がこの土地を払い下げることがようやく正式決定する。払い下げ先は、東北増殖株式会社、石巻市、万石浦・渡波漁業組合、塩田跡地利用組合、沢田漁協、宮城県水産高等学校、渡波魚市場等々である。
土地の使用目的だが、各漁協においては共同作業場や資材置場として、石巻市においては不燃ゴミ置き場として、水産高校は第二グランドや実験施設の建設のため、渡波水産加工協組は共同倉庫の建設のため、塩田跡地利用組合は宅地造成のためという具合であった。およそ跡地の再開発という雰囲気はない。とにかく「跡地を地元民に戻せ」という意識が強かったのであろう。
最も広い面積を得た東北水産増殖という会社は、最初ここに畜産加工場を造ろうとしたらしい。この辺りは種牡蠣や海苔の養殖が盛んな水域なので、漁業者による反対運動が起きたようである。公害という言葉が今より過敏に感じられた時代。それが功を奏したのか本には詳しく書かれていないが、結局この地に畜産工場が建つことはなく、昭和60年代に入ってから宅地化が進むことになった。
昭和40年代、地域住民の生活安定を図るため公用地の確保を推進しようとする動きがあった。自治省では自治体向けに土地開発基金という制度を設けていた。この制度を使ったのかどうかは分からないが、石巻市も塩田跡地の確保に動いた。公用地を得る本来の目的は公共施設の整備であるが、石巻市は跡地を不燃ゴミ置き場として使用した。
石巻市はさらに「石巻東清掃工場」を跡地に建設(昭和50年)する。これではまるで夢の島と同じである。土地の利用方法としてはセンスがないように思えるが、あの荒れ果てた様子からして仕方がない発想なのかもしれない。ゴミがどんどん増えていた時代だし。
夏場は虫が舞い、悪臭とメタンガスが発生し、塩田の周囲にあった堀はヘドロ化して、陳情運動が繰り広げられていたという。
現在ここには清掃工場はなく、万石浦小学校(昭和53年)、万石浦中学校(平成6年)、万石浦幼稚園(昭和59年)、万石浦グリーンパーク公園(昭和50年)、渡波地区福祉会館うしお荘(昭和50年)がある。
塩田跡地利用組合が所有していた土地も結局ずっと更地のままだった気がする。この場所には平成5年にベイパーク石巻という遊園地ができ、現在ではイオンスーパーセンター石巻東店がある。ベイパークができた頃からようやく塩田跡地の再開発という雰囲気が出て来た。
以上、流留渡波塩田跡地の活用に関しては長い間方向がまるでまとまらず、二転三転を繰り返して来たことが分かった。
「未来を拓く ふるさとの道」を書いた内海忠という人は政治家である。だから政治運動という視点で一連の出来事を書いている。そうした部分を割り引くとしても、住民運動や陳情の繰り返しがここにあったことに、渡波という町の土地柄を見たような気がした。