石巻市の古本屋 ゆずりは書房

宮城県石巻市で古本の買取をしています

石巻市渡波にあった水産会社「丹野水産」について

石巻市渡波地区にある水産加工業者で現在一番有名な所と言えば、おそらく末永海産なのではないかと思う。この会社は令和2年に内閣総理大臣賞を受賞している。私の実家と同じ町内にある。

 

しかし昭和の終わり頃だと、この町内で最も知られていた水産会社は「丹野水産」ではないだろうか。

 

かつて工場と社長の家があった場所は今では宅地になっていて、名残は何もない。丹野水産は平成3年に倒産したからである。当時地元で結構な騒ぎになった記憶がある。会社の敷地には、なぜかドアが3つある車が何台も停まっていた。

 

今になって丹野水産のことを調べてみようと思っても、ほとんど何も情報が出て来ない。社史でも残っていない限り、こうした出来事は全てが風に流れ、何もかも分からなくなってしまう。だから石巻の市史でも産業に関する記録が一番弱いと聞く。

 

丹野水産のことが少しだけ書かれている本を見つけた。中村直人著「幻想の魚市場」である。中村氏は大学卒業後、東京で水産会社をいくつか渡り歩いておられたらしい。

 

私は一応水産業の町と呼ばれている所に住んでいるが、水産業とのつながりは何もなく、業界のことはほとんど何も知らない。ついでに言うと、魚介類も普段あまり食べない。

 

この本は業界人であれば興味深く読めるのであろうが、前提知識がない私にとっては少し読みにくかった。

 

丹野水産の社長(存命かも知れないので名は控える)は大手スーパーマーケットとの取引を積極的に行っていたらしい。これは今では特別のこととも思えないが、1970年代までは大手スーパーであっても魚市場から直接仕入れるのが普通で、メーカーや商社と取引することはなかったらしい。現在でも中小のスーパーは市場から直接仕入れるそうで、私の地元にもそんな店がいくつかあるのではないかと思える。

 

80年代の丹野社長は時代の流れに乗り、果敢に営業攻勢をかけていたようである。

 

丹野水産の主力商品は「赤魚」だった。この魚は名前はよく目にするが正体が知られていない魚の一つとして知られている。太平洋のものをアラスカメヌケ、大西洋のものをタイセイヨウアカウオと呼ぶらしい。そして1980年代始め頃までは太平洋物のアラスカメヌケの方が主流だったそうである。これはスーパーで赤魚粕漬の原材料として使われた。

 

太平洋物の身には黒い点や模様が浮かんでいる。これが嫌われるようになり、1980年代から黒味がない大西洋物の赤魚がスーパーマーケット用に流通されるようになった。

 

大西洋では日本の漁船は操業できない。外国船が大西洋で獲った赤魚は冷凍状態になりそのまま日本の市場まで運ばれて来る。輸入品ではあるが取引は入札である。丹野社長は、石巻の市場に運ばれてきた冷凍魚を高値で買い続けていたという。赤魚がよその港に入るのを防いで石巻で独占していたのだから、経済的な恩恵はかなりのものだったろう。

 

日本産の赤魚に比べ、大西洋産のものは資源量が豊富であることが分かっていた。そのため大西洋赤魚は当時水産業界の花形だったらしい。

 

冷凍魚であっても時間が経てば鮮度が落ちる。具体的には「色飛び」といって、徐々に色が薄くなる現象が起こるそうである。

 

とは言え、欠品を起こすと販売機会損失を招くばかりか、そのままスーパーとの取引が終わってしまうことにもなりかねない。だからある程度余分に冷凍魚の在庫をキープする必要があった。その量半年から1年分だというからかなりの在庫だろう。

 

ここでまた時代の流れが変わった。色の悪い大西洋物が増えたからだろうか、スーパーがまた太平洋物の赤魚を扱うようになったのである。

 

大量の冷凍魚を抱えた丹野水産は不渡りを出して倒産した。その日、漁船組合で事務員をしていた私の母は夜遅くまで帰って来なかった。

 

丹野水産の倒産は地元だけでなく、日本の水産業界全体で騒ぎになったらしい。大量の冷凍魚が残されたままである。相場に影響を与えることが懸念された。(結局相場の混乱は起きなかったようであるが、では大量の冷凍魚は一体どこへ消えたんだろう?)

 

丹野社長の起業人生は、時代の流れとともに舞い上がり時代の流れともに散って行った。昭和後期の渡波の記録として、ここに丹野水産のことを書き留めておきたい。

 

渡波という町は住宅と水産加工場が混在している。丹野水産があった場所もそうであった。おそらく新興住宅地だと規制がかかるだろうが、昔からこういう場所だから今さらということになってしまう。

 

私の家の隣も水産加工場である。牡蠣の加工がメインのようだが時々ホヤを捌いていることもあって、庭までその臭いがやって来る。これはホヤが苦手ではないはずの私でもちょっと我慢できない臭いである。こんなリアルがあると、それだけで地元の水産業を応援しようという気にはあんまりなれなかったりする。ま、こんなことを書く石巻人はあまりいないだろうな。

 

 

金華山古道について(渡波町内)

最近石巻図書館で「大正~昭和初期 空撮の旅 仙台・宮城鳥人記」をいう本を読んだ。宮城県初の民間飛行士である高橋今朝治が戦前に複葉機から撮影した写真について解説を付けた本である。

 

その中に、私の実家がある石巻市渡波町昭和3年頃の空撮写真が掲載されていた。実家の辺りは昔塩田があった所だが、その塩田を構図のメインに空撮写真を撮っていた。おかげで、私の実家がある場所が昭和初期にどんな様子だったかはっきり知ることができた。

 

この地にあった塩田は入浜式塩田と言って、潮の干満差を利用して満潮時に海水を塩田に取り入れる方式である。海と接していない部分は堀が囲んでいてそこから海水が入る。この頃実家があった場所にはまだ海水が漂っていた。

 

現在、石巻から女川方面へ向かうには国道398号線を通る。この道路は昭和57年まで宮城県道だった。空撮写真を見るとまだこの県道が開通していないので、旧道が別にあったことが分かる。写真によると、どうも実家のすぐ前の道路がこの頃渡波から女川へと続く道だったらしい。

 

※この写真には所有者がおられ、特別に承諾を得て本に掲載したということなので、ブログに写メを載せるのは控えます。

 

「鰐陵同窓会報 1997年40号」に佐藤雄一氏が金華山古道紀行という文章を寄せている。そこで、かつて金華山へ参詣するために万石浦の船着場へ向かうにはどのルートを辿ったのかという考察を行っておられる。

 

それによると、現在の伊原津から渡波の船着場へ向かうには「表浜街道浜街道」「中街道」の2つのルートがあったそうである。

 

浜街道は現在の国道398号を通って途中から大宮神社の脇道に入るルート、中街道は伊原津から鹿妻方面に入り、今で言う中道に至るルートである。

 

浜街道をそのまま辿れば、渡波の昔のまちなかを経由してかつての船着場へ行きつく。グーグルマップを見ると、このルートに金華山道と表示が出ている。もっともこれは何をソースにしているのか分からない。

 

さらに浜街道を進むと水産高校の脇に出る。さらに進めば私の実家の前を通って、現在の国道398号と合流する。

 

中街道からはどう行くのだろうか。佐藤氏は現在の渡波小学校前の道かもしくは渡波小学校裏の道を通って渡波支所の前に至り、船着場に着くルートが推測されることを説明している。渡波小学校裏の道とはこんな道である。

航空写真を見ると、石巻線の線路を越えてうねうねと続く道があるのが確認できる。この道は現在全て残っているわけではないが、今でもこんな感じの名残がある。近年区画整理されてできた道ではないことが伺える。

 

中街道から渡波小学校側に抜けずそのまま進むと流留へ向かう道に至る。現在では、その後やがて国道398号に合流する。

 

佐藤氏は、昔は浜街道よりも中街道の方が人家が多く、金華山の参詣客にとっては安心できたのではないかと推測している。どちらのルートが金華山へ向かうメインロードだったのか結論はない。

 

渡波町を経由して女川へ向かうルートも昔は2つ存在したことが何となくわかった。

 

石巻方面から女川方面に向かって。左が国道398号、右が昔の船着場へ向かう道。古い道のため、国道と比べても遜色ない存在感がある。

 

別の場所から。女川方面から石巻方面に向かって。右が国道398号。

左が旧道で、途中に私の実家がある。意外にも古い道だということが分かったが、塩田に沿って自然に形成された道だと思われるので、古道というほどのものでもないと思う。

流留渡波塩田のその後について

宮城県石巻市渡波(わたのは)という町には江戸時代から昭和34年まで塩田があった。

 

 

この塩田は江戸時代には仙台藩における塩の約37%を製塩していた。昔の渡波は漁業と塩業の両方でかなり活気があったらしい。

 

昔の製塩は、濃縮させた海水を釜で煮詰めて塩の結晶を得る方法である。この製塩法は機械化により昭和30年代に終焉を迎える。日本各地の塩田がこの時期に廃止になっている。

 

私の実家がある場所は旧町名を明神釜という。この地名は海水を煮詰めるための釜に由来すると思われる。古い航空写真を見ると実家がある場所も昔塩田だったことが確認できる。

 

流留渡波塩田は昭和34年に廃止になるが、その跡地は昭和50年代が終わる頃まで何だかひどく荒れ果てたままの場所だった。今では宅地造成が進んだが、塩田跡地の開発がなぜ長い間ろくに進まないままだったのか不思議だった。

 

石巻図書館で「未来を拓く ふるさとの道(元市議会議員 内海忠)」という本に出会い、塩田廃止後の詳細がようやく明らかになったので、流留渡波塩田のその後の経緯をまとめてみたい。

 

塩田跡地の開発に向けて旧塩田業者は更正組合を結成したが、開発の目途がなかなか立たなかった。そこに東北開発株式会社という会社が買収に乗り出した。

 

東北開発株式会社とは昭和11年に日本政府が設立した国策会社で、事業目的は東北地方の殖産興業である。民営化されたのは何と昭和61年である。この会社が塩田跡地に精油基地を造ろうとした。地域開発のチャンスということもあり、塩田跡地のほとんどを買収することに成功した。

 

精油基地の建設には塩田跡地だけでは面積が足りず、万石浦の一部も埋め立てる必要があった。ところがボーリング調査の結果、万石浦の海底は地盤が緩いことが分かり、造成費が足りなくなって精油基地の話は立ち消えになった。話が違うということで、塩田の旧所有者達が土地の払い下げを東北開発株式会社に対して求めた。このまま昭和40年代に入る。

 

昭和45年になって、東北開発株式会社がこの土地を払い下げることがようやく正式決定する。払い下げ先は、東北増殖株式会社、石巻市万石浦渡波漁業組合、塩田跡地利用組合、沢田漁協、宮城県水産高等学校渡波魚市場等々である。

土地の使用目的だが、各漁協においては共同作業場や資材置場として、石巻市においては不燃ゴミ置き場として、水産高校は第二グランドや実験施設の建設のため、渡波水産加工協組は共同倉庫の建設のため、塩田跡地利用組合は宅地造成のためという具合であった。およそ跡地の再開発という雰囲気はない。とにかく「跡地を地元民に戻せ」という意識が強かったのであろう。

 

最も広い面積を得た東北水産増殖という会社は、最初ここに畜産加工場を造ろうとしたらしい。この辺りは種牡蠣や海苔の養殖が盛んな水域なので、漁業者による反対運動が起きたようである。公害という言葉が今より過敏に感じられた時代。それが功を奏したのか本には詳しく書かれていないが、結局この地に畜産工場が建つことはなく、昭和60年代に入ってから宅地化が進むことになった。

 

昭和40年代、地域住民の生活安定を図るため公用地の確保を推進しようとする動きがあった。自治省では自治体向けに土地開発基金という制度を設けていた。この制度を使ったのかどうかは分からないが、石巻市も塩田跡地の確保に動いた。公用地を得る本来の目的は公共施設の整備であるが、石巻市は跡地を不燃ゴミ置き場として使用した。

 

石巻市はさらに「石巻東清掃工場」を跡地に建設(昭和50年)する。これではまるで夢の島と同じである。土地の利用方法としてはセンスがないように思えるが、あの荒れ果てた様子からして仕方がない発想なのかもしれない。ゴミがどんどん増えていた時代だし。

 

夏場は虫が舞い、悪臭とメタンガスが発生し、塩田の周囲にあった堀はヘドロ化して、陳情運動が繰り広げられていたという。

 

現在ここには清掃工場はなく、万石浦小学校(昭和53年)、万石浦中学校(平成6年)、万石浦幼稚園(昭和59年)、万石浦グリーンパーク公園(昭和50年)、渡波地区福祉会館うしお荘(昭和50年)がある。

 

塩田跡地利用組合が所有していた土地も結局ずっと更地のままだった気がする。この場所には平成5年にベイパーク石巻という遊園地ができ、現在ではイオンスーパーセンター石巻東店がある。ベイパークができた頃からようやく塩田跡地の再開発という雰囲気が出て来た。

 

以上、流留渡波塩田跡地の活用に関しては長い間方向がまるでまとまらず、二転三転を繰り返して来たことが分かった。

 

「未来を拓く ふるさとの道」を書いた内海忠という人は政治家である。だから政治運動という視点で一連の出来事を書いている。そうした部分を割り引くとしても、住民運動や陳情の繰り返しがここにあったことに、渡波という町の土地柄を見たような気がした。

 

高野長英と石巻市沢田日影山について

車で国道398号を通って女川町へ向かう途中に「沢田(さわだ)」という地区がある。

山と万石浦に挟まれた場所であるため広い集落ではない。通称では、万石浦側を「表沢田」山の反対側を「裏沢田」と呼ぶ。

 

私の母方の祖父母達が戦後この辺に移り住んで来たのは、親戚に沢田駅の駅長をやっていた人がいたからだと聞いている。この駅は昭和35年無人駅になってしまったが、かつては小荷物を取り扱ったりしていて、かなり活気があったという。

 

江戸時代、この沢田地区に高野長英の母方のいとこが住んでいた。名を遠藤養林という。この人は沢田で代々医業を営んでいた家の4代目で、母親は高野長英の母の妹である。養林の母の名は古農と言った。(片倉舜「大槻俊齋」より)

 

長英は岩手県水沢の人で、高野玄斎という人の養子である。高野玄斎長英の母の兄であり、すなわち遠藤養林の母の兄でもある。遠藤家と同じく高野家も医者の家系である。

 

当時は水沢から石巻まで北上川を下って行くことができたという。川の水運が盛んだったおかげで生まれた水沢と石巻との縁談である。

高野長英が水沢と江戸を行き来する時は、北上川で舟の乗り換えをする度に沢田へ赴き、遠藤家で旅の疲れを癒したという。(稲井町史)

母の実家の水沢高野家の様子や、江戸で医術を学んでいた養林の様子などを伝えていたのではないかと想像される。

 

遠藤養林は長英とともに江戸へ医術を学びに行っている。最初の江戸行きで同行している。

 

養林は嘉永7年に45歳で亡くなっているが、その墓が沢田の日影山(ひかげやま)という場所にある。ここは万石浦を一望に見渡せる開けた丘である。

 

 

日影山の頂上には「沢田日影山経塚」があると「石巻の歴史(第7巻p437)」に書かれている。安永2年の「風土記御用書出(沢田村)」にも経壇についての記述があるそうである。この塚の上に稲荷神社があり、片倉舜氏の「大槻俊齋」には、この稲荷神社の祠に高野長英が身を隠していたと書かれている。「稲井町史」の方では折立の御室山神社に隠れていたと書かれているが、長英が蛮社の獄以降に石巻に来たとは思えないので、いずれにしても史実ではないだろう。残念ながら、この経塚への登り口がどこなのか現地に行ってもよく分からなかった。

 

遠藤養林の墓石は、いつの地震によるのか分からないが横に倒れたままになっていた。「大槻俊齋」には墓碑銘について「実参了悟士」と書いてあるが、実物を見ると「実参了悟信士」だと思われる。

 

遠藤家は5代目の時に明治維新を迎え、その時に千葉姓に改めている。おそらく養林の墓の隣にある新しい墓石が現在の千葉家のものなのだろう。

 

この沢田地区は私の母方のいとこの家がある場所である。こんな身近な場所で蘭学の歴史の一端に触れることができるとは思いもよらなかった。

根岸本郷とライオン山について

 

今でもそう呼ばれているのか分からないが、子どもたちが「ライオン山」と呼ぶ山が近所にある。たしかに樹々がたてがみで、岩肌がライオンの彫深い顔を彷彿させていると思えなくもない。このように岩肌がむき出しになっているのは、ここが採石場の跡だからである。

 

この辺りは現在では宅地造成が進んでだいぶきれいになっているが、比較的近年のことである。それまでは長年ひどく荒れ果てた場所だったのを覚えている。中学一年の時、採石場の中まで上がってみたことがある。池のような水溜まりがあり、不法投棄のゴミが散乱していて、まるで昭和のヒーローもので戦闘シーンに出て来そうな雰囲気だった。

 

この辺りの山々からは「井内石」と呼ばれる粘板岩が採掘できる。この石は記念碑や墓碑を掘るのに最適で、日本各地で使用例を見ることができるそうである。かつての旧稲井町はこの石材業で潤っていたそうで、そのため石巻市に合併したのも旧石巻市の町としては最も遅い昭和42年である。

 

石巻の石材業に関する資料は驚くほど何も見当たらない。そのため採石事業がいつ頃まで盛んだったのか、よく知ることができない。

 

ライオン山の歴史について国土地理院の航空地図により探ってみた。昭和44年の航空地図を見ると、採石はまだこの場所で始まっていないようである。昭和46年の航空地図では採石のための作業場らしきものが作られているのが確認できる。昭和50年にはもう採石が行われていて今の岩肌が形成されているのが分かる。しかし私の記憶だと、昭和50年代中頃にはもう採石が行われていなかったような気がする。だから、おそらく採石が始まってから10年もたたない内に閉鎖したのではないかと思われる。

 

この山の正式名称は「鹿松山」という。山頂には「牛ノ鞍館跡(遺構は明確でないそうである:石巻の歴史第7巻p429)」がある。西側の麓には「鹿松貝塚」「にら塚貝塚」「垂水囲貝塚」がある。これらの貝塚からは近世の陶器も出土しているそうである。(同p426)

 

今の渡波は佐々木肥後という人が天文年間に移住して来て開発した新しい町で、この辺りのかつての本村は根岸村であった。渡波はあくまで根岸村の端郷(はごう)であった。では根岸村の中心部はどこにあったのかと言えば、おそらくは複数の貝塚が存在する鹿松山の麓であろうと思われる。

 

渡波変電所近く、石巻線の踏切がある辺りに「後生橋」という橋がある。これは佐々木肥後が渡した橋だとされ、現在でも後生橋という地名として残っている。(旧流留村側にも五姓橋という地名が残っている)この橋は渡波村と流留村との境にかかると説明されることが多いが、本郷である根岸と端郷である渡波を行き来するための橋である、ということの方が重要だと思われる。根岸村の中心部がライオン山の麓だと考えれば、位置関係もしっくりくる。

 

 

これが現在の後生橋。背後に見えるのがライオン山。写真で見ると小さな堀にかかる何の変哲もない小橋にしか見えないが、古い道を知る上で重要な意味を持つ。

 

反対側。この道をずっと行くと宮城県水産高等学校の脇道に至る。

子供の頃は水産高校の脇道がなぜ湾曲しているのか不思議だったが、古くからある道だからである。

道の行きついた先には秋葉神社がある。

旧稲井町にあった「金山小学校」について

石巻方面から女川町へ向かうには現在2つのルートがある。1つは国道398号線をそのまままっすぐ東へ向かうルート。もう一つは県道234号線(稲井沢田線)を東へ進み、峠を越えてつづら折りの道を下ってから398号線に交わるルートである。石巻北部方面から女川町へ向かうならこちらのルートを取ることだろう。

 

峠の辺りにライフル射撃場があるのをご存じの方も多いと思う。実はここは小学校の跡地である。昭和56年3月までこの場所に「金山小学校」という昔ながらの木造校舎の学校が存在した。通学区は旧稲井町の沼津、沢田、流留の3区である。廃校後もしばらくは校舎がここに残っていて、当時私も中へ入ってみたりした。

 

この辺りの道路は交通量が多く、児童が通学するには適さない場所のように思えるかも知れないが、かつての子供たちは周辺の山道を通り抜けて金山小学校まで通っていた。

 

私が通っていたのは別の小学校だったが、従姉が昭和56年まで金山小学校に通っていたため、流留方面からの通学路を教えてもらい歩いてみたことがある。

 

当時の通学路は沢田の大畑という集落の奥から登って山道に入るルートであり、現在その山道の入口はこのようになっている。

出口はこうなっている。こちらの方は県道234号からも見ることができる。

学校はここの道路向かいすぐにあった。

4年前に神奈川県から石巻に戻って来た時、懐かしくなってこの道を歩いてみた。

山道の中は倒木が多く、くぐり抜けたり跨いだりしなければ通れなかったが、道自体はまだしっかり残っていた。途中に私設の神社があり、その周辺はきれいに整備されていた。

 

昭和56年の廃校当時、この学校は80年前からあると教えてもらった。その歴史は町史(稲井町史)で知ることができる。

 

金山小学校というのは沼津、沢田、流留3地区それぞれの分教場の統廃合を経て出来たという歴史があるため、沿革は少し複雑である。このうちの沼津分教場の最終的な移転先が現在の金山であるらしく、明治29年には大瓜小学校金山分教場と称したという。いつから金山に分教場があるのか町史からはよく読み取れない。

 

流留分教場が流留の地に建設されたのが明治26年で、尋常3年まではここへ通い、4年以上からは金山へ通わせたと町史にある。だから少なくとも明治26年には現在の金山に教場があったのだろう。あの山道の通学路もこの頃から存在したのかも知れない。

 

金山分校が独立の小学校になったのは明治36年である。明治42年に校舎を増築し、昭和8年旧校舎を改造して木造2階建となる。この時の姿が私も見た木造校舎である。

 

そして昭和56年3月、統廃合により金山小学校はなくなった。この時に大瓜小学校と真野小学校もなくなっている。沼津地区の子供は稲井小学校に、沢田地区と流留地区の子供は万石浦小学校に通うことになった。だから昭和50年以降に生まれた人は金山小学校に向かうかつての通学路の存在を知らないことになる。

 

ここもかつての通学路。大畑集落から山道へ向かう途中の道。

道の形状はどうにか留めているが、すでに忘れられた道になっている様子が伺える。

佐須浜の「山居」について

宮城県石巻市渡波(わたのは)という町がある。ここは私が生まれ育った所である。

 

宮城県の東部に牡鹿半島があるが、その付け根に万石浦という入江がある。渡波という町はその入江を挟んだ牡鹿半島の対岸(西)に位置する。基盤産業は水産業である。語尾が「は」で終わる町名というのは、まあまあ珍しいのではないだろうか。

 

今からわが町の地名の由来を探ってみたい。

 

由来には諸説あり、角川日本地名大辞典宮城県)には2説が記されている。少し言葉を補いながら紹介してみたい。

「この場所は、万石浦の入り口で波が折り返すことにより砂丘が生じ、それで陸地が形成されてできた場所である。そのため昔は波折渡之渚村と称していた。

また入江を渡ることをアイヌ語で「ワッタリ」といい、この言葉が転化して渡波になったという説もある。」

 

波折渡之渚村という地名は安永風土記に記載があるそうだが(宮城県史26では「波打渡之跡村となっている)この地名が渡波という地名に変化していく過程がうまく想像できない。この風土記のもとになった資料は仙台藩が各村に提出させたものだそうなので、当時の村が綺麗な村名を作り上げて記載し提出したのかも知れない。

アイヌ語地名説というのは完全に近年になってからの思い付きであろう。

 

他にこの地域の昔の地名に関する面白い資料がある。牡鹿半島側の祝田地区にある「洞源院」というお寺に関わる碑文である。

 

このお寺は輝寶山洞源院といってサン・ファン館の近くに位置するが、かつては今の場所でなく、柳沢山洞源院といって佐須浜から山を登った「山居(さんきょ)」という場所にあった。明治4年に火災にあい消失したままだったが、昭和50年になってから現在地に移転し遷座している。

 

山居に初めて寺が建てられたのは前九年の役の後だそうである。実に900年近い歴史があったことになる。

 

山居は山頂の水源地であるらしく、佐須浜や小竹浜に向かって沢水が流れている。浜からどうやって山居まで登るのか耳にしたことはないが、沢沿いの道を伝って登るように思われる。子供の頃、何も知らずに佐須浜側から沢道を少し登ってみたことがある。

 

この山居に1538年の碑文が残っていて、次のように刻まれているらしい。

陸奥牡鹿郡大和田郷楊沢山住持比丘密伝…」(石巻の歴史第7巻p488)

※「楊」も柳の意味。

 

戦国時代にこの辺りが「大和田郷」と呼ばれていたことが伺える文である。

 

残念ながら、この「大和田」という地名らしきものに関して、他に裏を取れる資料が私には見つけられない。また大和田トンネルを稲井側に抜けた所にある「大和田地区」との関連の有無も不明である。

 

以下からは私の推測である。

 

古語では「海」のことを「わだ」や「わた」と言った。

そのため、太平洋を間近に見る山居の辺りに「和田」という地名があったとしてもさほど不思議ではない。(全国の「和田」という地名においても、海に因んで付けられた場所は多いらしい。精査まではしていないが。)

 

さて、「わたのは」の「の」は助詞の「の」だと思われる。「は」は端の意味だとして、「わた」は「和田」もしくは「海(わた)」のことであろうと思われる。

 

とすれば、渡波の地名の起こりは「和田の端(に位置する場所)」か、あるいは単に海っぱたという意味で「海の端」から来たのではないかと想像できる。

 

なお地元では少し訛りが入るため、わたのはを「わだのは」と呼んだりするが、「わた」も「わだ」も同じ海という意味なので、発音が変わることによる意味の転化は起こらない。

 

「和田の端」「海の端」いずれにしても、渡波という地名の由来は「海」であって「渡」ではないと思われる。山居の碑文がそのことを示す間接的な証拠となる。

 

山居は今では林業の会社の社有地のようになっているらしい。実際の碑文を一度見たいと思っているが多分叶わないだろう。

 

山居のことなんて洞源院のサイトにも詳しくは書かれていない。いずれ忘れられた場所になるだろう。なので私がこうしてネット記事に残してみました。

 

山居へ続くと思われる道。左手に沢が流れている。

途中の水道施設まではこうして舗装されているが、そこを抜けると道らしい道はなくなり、さらに進むとただの岩場となって、上へと続いていく。