私は石巻にあった古本屋三十五反の櫻井清助氏の影響で古本屋を始めたためか、櫻井氏のライフワークだった布施辰治研究にも関心を持っているように思われている節がある。しかし私が布施辰治と櫻井氏との関わりのことを知ったのは7年前に石巻へ戻って来てからのことで、それまでは布施辰治という名前は知らなかった。
布施辰治という人は石巻では有名人である(櫻井氏の功績であろう)。明治13年に蛇田村で生まれ育って上京し、明治法律学校を経て弁護士となり、朝鮮独立運動に関する事件の弁護に多く携わったことで、人権派弁護士として知られることになった。2000年に放映された韓国のテレビ番組で「日本人シンドラー布施辰治」として紹介されている。
布施の言動に影響を与えたのは墨子の兼愛の思想であると言われていたり、トルストイの思想であると言われていたり、キリスト教であったりと色々言われているが、(私は奥さんの日蓮正宗が肝であったのではないかと思っているが)このブログでは布施辰治とキリスト教との関わりについて考えてみたい。
布施はキリスト教(正教会)で洗礼を受けている。その時期は、大石進「弁護士布施辰治(2010年)」によると、布施が18歳で上京し、東京神田駿河台のニコライ堂にあった神学校へ入学する時であったという(P18)。
布施柑治「ある弁護士の生涯(1963年)」によると、布施が神学校へ入った理由は生活の安定を得ようとしたためであったと書かれている(P19)。当時日本の正教会はロシア正教会から資金援助を受けていたため、神学校に住み込みで完全給費制で学ぶことができたらしい。もっとも神学校を出て神父として生きるということは本来そんなにたやすく決断できることではない。赴任地の教会に住まなければならないし、日本全国どこに赴任させられるかも分からない。そもそも一生を神に捧げる覚悟が求められる。
布施は石巻にいた時から正教会と接触を持っていたと思われる。1861年にニコライによって函館において開始された正教の伝道活動は東北地方まで南下し、1871年(明治4年)には仙台まで伝道師が派遣され、1年後には仙台の正教信者数は100名に、10年後には500名にまで広がったという。明治期における宮城県内のハリストス正教会の数は60カ所を超えていたと言われる。
「東北民俗第53輯(令和元年) 宮城県のハリストス正教会(一)」によると、大正時代のことではあるが、何と石巻の渡波にも正教会の伝道地区のようなものがあったとある(湊教会の一部?)。かつての宮城県はそれほどまでに正教会の勢いがあったのである。あまり知られていないが、宮城県は現在でもハリストス正教会が日本で最も多く残っている地域である。
神田駿河台にニコライ堂が建てられたのは1891年(明治24年)で、布施が11歳の時であり、ニコライ自身もこの時函館からニコライ堂へ移っている。だから布施が正教の神学校に入学しようとした頃には当然ニコライと面識を持つ機会もあったと思われる。実際に布施はニコライに対して威厳と神秘を感じたという。(「ある弁護士の生涯」P19)ところが布施は神学校をわずか3カ月で辞めている。
布施が神学校にいた時の身分は正規の神学生ではなく、あくまで候補生のような立場であったらしい。ところが神学生として正式に入学する時の儀式で、一同代表で祈祷を行うよう命じられた時にそれを断ってしまい、そのまま入学することなく神学校を去ったという。(「ある弁護士の生涯」(P19)より)
「弁護士布施辰治」では、布施が神学校を退学した理由について「首都の本山で内から見ると、キリスト教の理念から離れたものになっているように布施には思えたのであろう(P20)」とし「正教が自分の感性、「良心」と一致しないことに気づいたからである(同)」と記している。
しかし私には、この時布施がそこまでの強い信念をもって神学校を辞めたようには思われない。
もっとも、キリスト教が倫理や道徳を説くことを目的としているわけではないというのは確かである。とりわけ正教というのは、ざっくり言ってしまえば「人が神と一致する」ことを目指す宗教である。神の似姿として造られたはずの人間がエデンの園で過ちを犯したために追放されたという話は、信者ならずともよくご存じであろう。人は神の像としての姿は残しているが、神の似姿とは呼べなくなってしまっている。この似姿に戻ろうとするのがキリスト教の目的であって、愛やら何やら道徳的なことを説こうとするのがキリスト教の本質ではない(「神と人を愛することが大切である」という教えはある)。
キリスト教が倫理や道徳を説いているわけではないということに関しては、20世紀のリベラル派カトリック神学者のカール・ラーナーも「現代に生きるキリスト教(ヘルデル文庫)」という本の中で「キリスト教は、人間の現世的未来について何らの予言も綱領も明白な処方箋も、もってはいない。キリスト教はもともと、この人間は、現世的未来をもっていないことを知っており、したがって人間は保護もうけずに現世的未来のくらやみの冒険のうちに歩みつづけねばならぬことを、知っている。(p12)亅となかなか大胆なことを言っている。
おそらく布施は明治の青年として「キリスト教的なもの」に惹かれてはいたが、キリスト教そのものについてはそれほど正確に理解していたわけではなかったのではないのだろうか(今でもほとんどの日本人がそうかもしれない)。彼は正教の神学校を辞めた後、プロテスタント(聖公会)に接触した形跡があるらしい(「ある弁護士の生涯)P21)」。これはいわば宗教ジプシーとも呼べるような行為であり、確固たる信仰を持った人間の行動ではない。キリスト教初心者にはよくあることのようである。もちろん布施の後の業績に関してキリスト教が部分的にあるいは多くの面において影響を与えていたことは疑いようがないように思う。このことについては、大石進氏も1983年の「布施辰治先生三十回忌追悼会」スピーチにおいて「信仰はないけれども、少なくとも自分の行動の指針と言いますか、道徳の規準に非常に近いものをキリスト教に感じていたんだろうと思います」と語っておられて、私もそれに同意するし、神学校を3ヵ月で辞めてしまった心理もそれで理解できるような気がする。
最後に、布施と日蓮正宗とのことについて触れたいと思う。布施の奥さんは旧姓「平澤光子」という人で、彼女の甥は日蓮正宗総本山第66世法主の細井日達であり、その縁か光子さんの仏壇には当時の日蓮正宗大石寺の法主(第55世日府?)からいただいた婚姻詔書ともいうべき曼荼羅が保存されているという(「弁護士布施辰治」P33)。ところがこの曼荼羅に布施の筆跡による改ざんが付け加えられているらしい。光子さんの旧姓が「平澤」ではなく別の苗字であったのを、布施が「布施」と書き直しているらしいのである。つまり光子さんは当初別の男性と婚姻しており、正宗の法主から曼荼羅を頂戴したのはその時のようなのだが、いくらなんでも宗団のトップからいただいた曼荼羅に旦那自らが手を加えてしまうなど、通常の感覚では考えられない。いくら光子さんを宗教的不安から守ろうと考えたとしてでもである(私は結婚経験がないのでこの辺りはあくまで想像)。
布施は宗教や思想、哲学を自らの拠り所にしようとする明治期らしい人物だったようだが、具体的に何を拠り所にするかという所に関しては、定まる所がなかった人だったのかも知れない。
ちなみに我が家は祖父母の代から曹洞宗で、キリスト教関係者も日蓮系宗派の関係者も周囲には誰一人いません。












