しばらく前のことであるが、「平家落人伝説と私」という記事を書いたことがある。私の祖父は旧宮崎町の寒風澤(さぶさわ)という山間の集落出身で、そこに平家落人伝説が伝わっているという話を以前書いた。
宮城県の平家落人伝説でよく知られているのは仙台市青葉区大倉にある定義山である。黒川郡大和町の升沢という地も落人伝説で知られる。そして祖父の実家があった集落にも平家落人伝説がある。「宮崎町史(昭和47年)」の「附録第一 部落誌」には、「寒風澤の早坂家は平家の落人と伝えられているから、この地に伝わる野史の一端を述べよう」とある。
宮城県史28に安永風土記(加美郡)が掲載されていて、そこに「賀美郡宮崎村寒風澤御足軽書出」という項目があるので、今回は前回よりも詳細に我が先祖のことを探ってみたいと思う。寒風澤御足軽のことについては「宮崎町史」にも項目があるが、今回は書出の原文に当たった。
寒風澤という地には出羽国へ抜ける街道があり(現在は封鎖)、御番所が設けられていた。その場所は、県道262号を抜けて寒風澤集落へ向かう途中にある山神社の辺りだという。私のご先祖達は元は農民だったが、番所が設置された時に番所足軽に取り立てられている(1683年)。全部で13家あり、足軽に取り立てられた当時の氏名は次のとおりである。
早坂与左衛門 持来高1貫716文 御切米1分判2切
半沢正蔵 持来高記載無し 御切米1分判15切
紺野治右衛門 持来高400文 御切米1分判2切
石山齋兵衛 持来高697文 御切米1分判2切
猪又喜右衛門 持来高586文 御切米1分判2切
猪又清吉 持来高564文 御切米1分判2切
早坂与兵衛 持来高851文 御切米1分判2切
早坂半左衛門 持来高1貫489文 御切米1分判2切
早坂治郎兵衛 持来高1貫569文 御切米1分判2切
紺野藤七 持来高569文 御切米1分判2切
猪又庄左衛門 持来高1貫210文 御切米1分判2切
猪又長右衛門 持来高197文 御切米2切
猪又平右衛門 持来高2貫652文 御切米1分判2切
最後の「猪又平右衛門」というのが私の先祖である。ただし祖父は本家の長女の子供で、曾祖母は早坂某という人の所から婿をとっているから、男系の先祖というわけではない。
上の「持来高」とはもともと所有していた土地で、「御切米」とは仙台藩から支給される俸禄である。土地を所有しながら藩からも禄をもらう「半農半士」というべき立場だったことが分かる。
賀美郡内の他の「代数有之御百姓書出」に苗字は掲載されていない。寒風澤御足軽に関して苗字が記載されているということは、公称を許されていたのかも知れない。不便な山間部に住まわされながらもプライドは維持され続けたことだろう。私が実際に見た感覚だと平成の初め頃までそんな感じがあったように思う。
上の13家の中で重要なのは、最初の早坂与左衛門家とその次の半沢正蔵家である。
最初の早坂家だけが9代前まで遡ることができる家で、「右(5代目)與左衛門儀、承応年(1652~1655)中、御山守相勤め候」とあって、「山守(仙台藩直轄の御山や御林の管理を行う役人)」だったことが確認できる。さらに6代目與左衛門がまだ部屋住みで「齋無太郎」と名乗っていた頃の話として「寛永十九年六月二十三日の夜(略)当所御境横目・大内源太郎殿、御境脇通御見分、齋無太郎を召し連れ」とあって、藩の御境横目に同行できる程度の立場にあったことが確認できる。早坂家が後に足軽に取り立てられるのは、これらの記録が書かれる前の頃から色々と実績があったからだろう。この早坂家は寒風澤足軽の組頭になる。祖父の実家はもともと早坂家に従っていた農民だったのだろう。
半沢正蔵家であるが、この家だけ持来高の記載が無く、御切米が1分判15切と他の家より少し多い。書出には「右(半沢)清七儀、先祖半庄蔵以前の名前ならびに代数ともに相知れ申さず候えども、石母田長門殿足軽にて、当所御境横目衆へ加勢のため、定番に右庄蔵相付けられ、当所に住居仕り候間」とある。つまり半沢家の先祖は元は石母田氏に仕えていた足軽で、御境横目衆の加勢をするために移り住んで来た家であり、そのため百姓としての土地は有しておらず、かつ他家よりも少し格が高いために切米が多いのではなかったかと思われる。
寒風澤百姓が足軽に取り立てられた理由は、山守である早坂家の長年の実績が認められていたことと、半沢家がもともと足軽だったことが考慮されてのことだと推測できる。
ところで上の一覧を見ると、私の先祖である猪又平右衛門家だけが突出して持来高が大きい(2貫652文)。賀美郡宮崎村寒風澤御足軽書出では平右衛門家の事績について何も記しておらず、なぜこんなに財産を持っていたのか理由を知ることはできない。
さてここから先は史料によらず、想像で話をする。
寒風澤の百姓達の生業は何かと言うと、やはり林業だったのではないだろうか。
広瀬川の上流である定義山や大倉では木の伐採が行われ、それを川に流して下流に送っていたという。
祖父の実家の裏手には「田川」という川が流れていて、加美町の辺りで鳴瀬川と合流する。寒風澤の辺りにも仙台藩直轄である御山があり(大倉山)、その収穫物を何らかの方法で下流に送り仙台藩に収めていたはずである。広瀬川水系同様に鳴瀬川水系でも木を流していたという記録があるのかよく分からないが、行っていたとしてもおかしくないように思う。早坂与左衛門家はその中心的存在だったのではないだろうか。
平家落人伝説がある黒川郡大和町の升沢にも実は「荒川」という鳴瀬川水系の川が流れており、色麻町方面へ流れ鳴瀬川と合流する。だから升沢という場所は今は大和町だが元々は加美郡との結びつきが強かったそうである。こちらのサイトでは「荒川の木流し」という言葉が使われている。升沢にも御番所があったが早期に廃止され、その後早坂林右衛門家に木流し役所が置かれたという。升沢の近くにも大倉山という山があった。
ここで改めて仙台市青葉区大倉の定義山における平貞義伝説について振り返ってみたい。定義山の西方寺を開いたのは早坂源兵衛という人物で(出家して観蓮社良念)、宝永3年(1706)のことである。宮城郡大倉山「風土記御用書出」の阿弥陀堂の項目には「本尊は小松三位重盛公御家臣筑後守定義守り本尊の由申し伝え候」とあって、平貞義が落ち延びて来たという話ではなく、ご本尊は平貞義の持仏であるという由来記のみが記されている。安永風土記がまとめられたのは1772~1781年のことだから、平貞義が東北に落ち延びたという話ができたのはこれ以降だと思われる(19世紀か?)。ちなみに「寒風澤御足軽書出」には平貞義のことは何も記されていない。
ただ、ここで共通する点がいくつかあることに気づいてしまう。「早坂氏」「木流し(林業)」そして「大倉山という地名」である。
つまりこれらの地にいた早坂氏は林業を通じたネットワークでつながっており、定義山の平貞義伝説がおそらく1800年代に仙台藩内に膾炙したことで、それを共有したのではないかと想像できるのである。こう言ってしまうと身も蓋もないかもしれない。ま、私は歴史にロマンを見ようとしないタイプなので。
写真は今も残る加美町旧寒風澤分校旧校舎。













