今でもそう呼ばれているのか分からないが、子どもたちが「ライオン山」と呼ぶ山が近所にある。たしかに樹々がたてがみで、岩肌がライオンの彫深い顔を彷彿させていると思えなくもない。このように岩肌がむき出しになっているのは、ここが採石場の跡だからである。
この辺りは現在では宅地造成が進んでだいぶきれいになっているが、比較的近年のことである。それまでは長年ひどく荒れ果てた場所だったのを覚えている。中学一年の時、採石場の中まで上がってみたことがある。池のような水溜まりがあり、不法投棄のゴミが散乱していて、まるで昭和のヒーローもので戦闘シーンに出て来そうな雰囲気だった。
この辺りの山々からは「井内石」と呼ばれる粘板岩が採掘できる。この石は記念碑や墓碑を掘るのに最適で、日本各地で使用例を見ることができるそうである。かつての旧稲井町はこの石材業で潤っていたそうで、そのため石巻市に合併したのも旧石巻市の町としては最も遅い昭和42年である。
石巻の石材業に関する資料は驚くほど何も見当たらない。そのため採石事業がいつ頃まで盛んだったのか、よく知ることができない。
ライオン山の歴史について国土地理院の航空地図により探ってみた。昭和44年の航空地図を見ると、採石はまだこの場所で始まっていないようである。昭和46年の航空地図では採石のための作業場らしきものが作られているのが確認できる。昭和50年にはもう採石が行われていて今の岩肌が形成されているのが分かる。しかし私の記憶だと、昭和50年代中頃にはもう採石が行われていなかったような気がする。だから、おそらく採石が始まってから10年もたたない内に閉鎖したのではないかと思われる。
この山の正式名称は「鹿松山」という。山頂には「牛ノ鞍館跡(遺構は明確でないそうである:石巻の歴史第7巻p429)」がある。西側の麓には「鹿松貝塚」「にら塚貝塚」「垂水囲貝塚」がある。これらの貝塚からは近世の陶器も出土しているそうである。(同p426)
今の渡波は佐々木肥後という人が天文年間に移住して来て開発した新しい町で、この辺りのかつての本村は根岸村であった。渡波はあくまで根岸村の端郷(はごう)であった。では根岸村の中心部はどこにあったのかと言えば、おそらくは複数の貝塚が存在する鹿松山の麓であろうと思われる。
渡波変電所近く、石巻線の踏切がある辺りに「後生橋」という橋がある。これは佐々木肥後が渡した橋だとされ、現在でも後生橋という地名として残っている。(旧流留村側にも五姓橋という地名が残っている)この橋は渡波村と流留村との境にかかると説明されることが多いが、本郷である根岸と端郷である渡波を行き来するための橋である、ということの方が重要だと思われる。根岸村の中心部がライオン山の麓だと考えれば、位置関係もしっくりくる。
これが現在の後生橋。背後に見えるのがライオン山。写真で見ると小さな堀にかかる何の変哲もない小橋にしか見えないが、古い道を知る上で重要な意味を持つ。
反対側。この道をずっと行くと宮城県水産高等学校の脇道に至る。
子供の頃は水産高校の脇道がなぜ湾曲しているのか不思議だったが、古くからある道だからである。
道の行きついた先には秋葉神社がある。