石巻市の古本屋 ゆずりは書房

宮城県石巻市で古本の買取をしています

流留渡波塩田のその後について

宮城県石巻市渡波(わたのは)という町には江戸時代から昭和34年まで塩田があった。

 

 

この塩田は江戸時代には仙台藩における塩の約37%を製塩していた。昔の渡波は漁業と塩業の両方でかなり活気があったらしい。

 

昔の製塩は、濃縮させた海水を釜で煮詰めて塩の結晶を得る方法である。この製塩法は機械化により昭和30年代に終焉を迎える。日本各地の塩田がこの時期に廃止になっている。

 

私の実家がある場所は旧町名を明神釜という。この地名は海水を煮詰めるための釜に由来すると思われる。古い航空写真を見ると実家がある場所も昔塩田だったことが確認できる。

 

流留渡波塩田は昭和34年に廃止になるが、その跡地は昭和50年代が終わる頃まで何だかひどく荒れ果てたままの場所だった。今では宅地造成が進んだが、塩田跡地の開発がなぜ長い間ろくに進まないままだったのか不思議だった。

 

石巻図書館で「未来を拓く ふるさとの道(元市議会議員 内海忠)」という本に出会い、塩田廃止後の詳細がようやく明らかになったので、流留渡波塩田のその後の経緯をまとめてみたい。

 

塩田跡地の開発に向けて旧塩田業者は更正組合を結成したが、開発の目途がなかなか立たなかった。そこに東北開発株式会社という会社が買収に乗り出した。

 

東北開発株式会社とは昭和11年に日本政府が設立した国策会社で、事業目的は東北地方の殖産興業である。民営化されたのは何と昭和61年である。この会社が塩田跡地に精油基地を造ろうとした。地域開発のチャンスということもあり、塩田跡地のほとんどを買収することに成功した。

 

精油基地の建設には塩田跡地だけでは面積が足りず、万石浦の一部も埋め立てる必要があった。ところがボーリング調査の結果、万石浦の海底は地盤が緩いことが分かり、造成費が足りなくなって精油基地の話は立ち消えになった。話が違うということで、塩田の旧所有者達が土地の払い下げを東北開発株式会社に対して求めた。このまま昭和40年代に入る。

 

昭和45年になって、東北開発株式会社がこの土地を払い下げることがようやく正式決定する。払い下げ先は、東北増殖株式会社、石巻市万石浦渡波漁業組合、塩田跡地利用組合、沢田漁協、宮城県水産高等学校渡波魚市場等々である。

土地の使用目的だが、各漁協においては共同作業場や資材置場として、石巻市においては不燃ゴミ置き場として、水産高校は第二グランドや実験施設の建設のため、渡波水産加工協組は共同倉庫の建設のため、塩田跡地利用組合は宅地造成のためという具合であった。およそ跡地の再開発という雰囲気はない。とにかく「跡地を地元民に戻せ」という意識が強かったのであろう。

 

最も広い面積を得た東北水産増殖という会社は、最初ここに畜産加工場を造ろうとしたらしい。この辺りは種牡蠣や海苔の養殖が盛んな水域なので、漁業者による反対運動が起きたようである。公害という言葉が今より過敏に感じられた時代。それが功を奏したのか本には詳しく書かれていないが、結局この地に畜産工場が建つことはなく、昭和60年代に入ってから宅地化が進むことになった。

 

昭和40年代、地域住民の生活安定を図るため公用地の確保を推進しようとする動きがあった。自治省では自治体向けに土地開発基金という制度を設けていた。この制度を使ったのかどうかは分からないが、石巻市も塩田跡地の確保に動いた。公用地を得る本来の目的は公共施設の整備であるが、石巻市は跡地を不燃ゴミ置き場として使用した。

 

石巻市はさらに「石巻東清掃工場」を跡地に建設(昭和50年)する。これではまるで夢の島と同じである。土地の利用方法としてはセンスがないように思えるが、あの荒れ果てた様子からして仕方がない発想なのかもしれない。ゴミがどんどん増えていた時代だし。

 

夏場は虫が舞い、悪臭とメタンガスが発生し、塩田の周囲にあった堀はヘドロ化して、陳情運動が繰り広げられていたという。

 

現在ここには清掃工場はなく、万石浦小学校(昭和53年)、万石浦中学校(平成6年)、万石浦幼稚園(昭和59年)、万石浦グリーンパーク公園(昭和50年)、渡波地区福祉会館うしお荘(昭和50年)がある。

 

塩田跡地利用組合が所有していた土地も結局ずっと更地のままだった気がする。この場所には平成5年にベイパーク石巻という遊園地ができ、現在ではイオンスーパーセンター石巻東店がある。ベイパークができた頃からようやく塩田跡地の再開発という雰囲気が出て来た。

 

以上、流留渡波塩田跡地の活用に関しては長い間方向がまるでまとまらず、二転三転を繰り返して来たことが分かった。

 

「未来を拓く ふるさとの道」を書いた内海忠という人は政治家である。だから政治運動という視点で一連の出来事を書いている。そうした部分を割り引くとしても、住民運動や陳情の繰り返しがここにあったことに、渡波という町の土地柄を見たような気がした。