石巻市の古本屋 ゆずりは書房

宮城県石巻市で古本の買取をしています

佐須浜の「山居」について

宮城県石巻市渡波(わたのは)という町がある。ここは私が生まれ育った所である。

 

宮城県の東部に牡鹿半島があるが、その付け根に万石浦という入江がある。渡波という町はその入江を挟んだ牡鹿半島の対岸(西)に位置する。基盤産業は水産業である。語尾が「は」で終わる町名というのは、まあまあ珍しいのではないだろうか。

 

今からわが町の地名の由来を探ってみたい。

 

由来には諸説あり、角川日本地名大辞典宮城県)には2説が記されている。少し言葉を補いながら紹介してみたい。

「この場所は、万石浦の入り口で波が折り返すことにより砂丘が生じ、それで陸地が形成されてできた場所である。そのため昔は波折渡之渚村と称していた。

また入江を渡ることをアイヌ語で「ワッタリ」といい、この言葉が転化して渡波になったという説もある。」

 

波折渡之渚村という地名は安永風土記に記載があるそうだが(宮城県史26では「波打渡之跡村となっている)この地名が渡波という地名に変化していく過程がうまく想像できない。この風土記のもとになった資料は仙台藩が各村に提出させたものだそうなので、当時の村が綺麗な村名を作り上げて記載し提出したのかも知れない。

アイヌ語地名説というのは完全に近年になってからの思い付きであろう。

 

他にこの地域の昔の地名に関する面白い資料がある。牡鹿半島側の祝田地区にある「洞源院」というお寺に関わる碑文である。

 

このお寺は輝寶山洞源院といってサン・ファン館の近くに位置するが、かつては今の場所でなく、柳沢山洞源院といって佐須浜から山を登った「山居(さんきょ)」という場所にあった。明治4年に火災にあい消失したままだったが、昭和50年になってから現在地に移転し遷座している。

 

山居に初めて寺が建てられたのは前九年の役の後だそうである。実に900年近い歴史があったことになる。

 

山居は山頂の水源地であるらしく、佐須浜や小竹浜に向かって沢水が流れている。浜からどうやって山居まで登るのか耳にしたことはないが、沢沿いの道を伝って登るように思われる。子供の頃、何も知らずに佐須浜側から沢道を少し登ってみたことがある。

 

この山居に1538年の碑文が残っていて、次のように刻まれているらしい。

陸奥牡鹿郡大和田郷楊沢山住持比丘密伝…」(石巻の歴史第7巻p488)

※「楊」も柳の意味。

 

戦国時代にこの辺りが「大和田郷」と呼ばれていたことが伺える文である。

 

残念ながら、この「大和田」という地名らしきものに関して、他に裏を取れる資料が私には見つけられない。また大和田トンネルを稲井側に抜けた所にある「大和田地区」との関連の有無も不明である。

 

以下からは私の推測である。

 

古語では「海」のことを「わだ」や「わた」と言った。

そのため、太平洋を間近に見る山居の辺りに「和田」という地名があったとしてもさほど不思議ではない。(全国の「和田」という地名においても、海に因んで付けられた場所は多いらしい。精査まではしていないが。)

 

さて、「わたのは」の「の」は助詞の「の」だと思われる。「は」は端の意味だとして、「わた」は「和田」もしくは「海(わた)」のことであろうと思われる。

 

とすれば、渡波の地名の起こりは「和田の端(に位置する場所)」か、あるいは単に海っぱたという意味で「海の端」から来たのではないかと想像できる。

 

なお地元では少し訛りが入るため、わたのはを「わだのは」と呼んだりするが、「わた」も「わだ」も同じ海という意味なので、発音が変わることによる意味の転化は起こらない。

 

「和田の端」「海の端」いずれにしても、渡波という地名の由来は「海」であって「渡」ではないと思われる。山居の碑文がそのことを示す間接的な証拠となる。

 

山居は今では林業の会社の社有地のようになっているらしい。実際の碑文を一度見たいと思っているが多分叶わないだろう。

 

山居のことなんて洞源院のサイトにも詳しくは書かれていない。いずれ忘れられた場所になるだろう。なので私がこうしてネット記事に残してみました。

 

山居へ続くと思われる道。左手に沢が流れている。

途中の水道施設まではこうして舗装されているが、そこを抜けると道らしい道はなくなり、さらに進むとただの岩場となって、上へと続いていく。