石巻市の古本屋 ゆずりは書房

宮城県石巻市で古本の買取をしています

石巻川開き祭りの始まりについて

私が住む宮城県石巻市では、毎年8月に「石巻川開き祭り」という打ち上げ花火を伴う祭りが開催されている。大正時代から続いており、今年で100回目となる。石巻の人であれば大変なじみ深い祭りである。

 

子供の頃、湊地区の御所入という場所に父の友人が住んでおり、そこに車を停めさせてもらって会場まで歩いて向かい花火を見た記憶がある。

 

私はお祭り好きな方ではないので、先年石巻の実家に戻ってからは川開きの日はいつも家でじっとしていた。昨年、一度位は見ておこうと思って車で市内中心部へ向かったが、交通規制が複雑怪奇でそのまま家に引き返してしまった。今年から市内で店を開けているので、当日は鉄道かバスで何とか店には辿り着こうと思っている。

 

先日、NPO法人石巻アーカイブさんが主宰する勉強会へ参加し、石巻川開き祭りの歴史について触れた。なじみ深い祭りであっても知らないことが多いものだと思った。

 

質疑応答で面白い質問がでた。「この祭りになぜ川開きという名称が付けられたのか?」今までそんなこと気にしたこともなかったが、石巻川開き祭りの起源がどういうものなのかということは調べたくなった。

 

石巻日々新聞社 石巻の大正・昭和」には「もともと石巻では川瀬餓鬼や海瀬餓鬼が古くから石巻・門脇・湊の旧村ごとに行われていた」とある。門脇の海門寺(現在廃寺)では海難追悼法要が行われていたそうだし、北上川(住吉)でも灯ろうを流して水難供養が行われていたとある。こうしたものが川開き祭りの淵源にあたる行事だと思われる。

 

打ち上げ花火はいつから石巻にあるのだろう。「石巻市史(昭和37年」には、すでに文化文政時代に石巻の花火を詠んだ俳句が存在することが書かれている。明治3年には千葉巳代吉という花火師が仲瀬や大門埼で花火を打ち上げたそうである。意外にも歴史が古いことが分かった。

 

祭りはやがて興行化していく。大正時代になり、新潟市にある信濃川の花火祭りが大評判だったという話に石巻の有力者が着目し、石巻日々新聞社が先頭に立って石巻川開祭協賛会を結成し、地域繁栄を目的として大正5年に第1回川開き祭りを開催した。ここからが現在の石巻川開き祭りである。

 

新潟市は東京両国の花火大会をまねて開催したそうなので、石巻の川開き祭りもひいては隅田川花火大会を参考にしたものだと言える。

 

墨田区の公式ウェブサイトに両国花火大会についての記載がある。そこには、飢饉や疫病の死者供養として、享保18年に初の両国川開きが開かれたとある。また「森貞謾稿」という江戸末期の和書に「五月二十八日 浅草川川開」という記述があるため、「川開き」という呼び名は江戸時代にすでに存在していたことが分かる。川開き祭りというネーミングは大正時代の石巻の人によるオリジナルではない。ここまで探れば十分だろう。

 

今では日本全国に花火大会があるため、石巻川開き祭りの花火もそれほど物珍しさが感じられなくなってしまった。しかしかつては東北の花火大会の中では酒田と並ぶかなり大きな規模のものだったそうである。

 

私は今年、川開きの日にとりあえず店を開けにはいくが、ついでに花火も見るかは分からない。何せ祭りのあとを一人で歩く方が好きなタイプだから。

 

 

 

 

 

平家落人伝説と私

宮城県仙台市大倉にある定義山(定義如来西方寺)は平家落人伝説が伝わることで知られている。平家滅亡後、平貞能(さだよし)がこの地に移り住んだという言い伝えである(定義は「じょうぎ」と読むが、「さだよし」とも読める)。

 

このような言い伝えが残る山間集落が宮城県内にはいくつかある。黒川郡大和町の升沢という集落もその一つとして知られている。この地にあった早坂四家という旧家が平家落人の子孫だったと伝えられている。

県道147号を山形方面へ進むと、ある地点から人家がぷっつりと途絶える。やがて風早峠という所を越えると視界が急に開ける。この地が升沢で、2000年頃まで平家落人伝説を伝える集落があったという。集落移転事業により今ではここに家々はないらしい。

 

実は、私の祖父が生まれ育った集落にも平家落人伝説が伝わっていた。

 

祖父が生まれ育った場所は旧宮崎町の寒風澤(さぶさわ)という集落である。

県道262号を山形県へ向かって進み、旭地区を抜けると道路沿いの人家がまばらになりだす。そのずっと奥に祖父の実家がある。家は現在も残っている。

祖父の実家の少し奥にさらに家が2軒あるが、それを最後に山形県に入るまで人家はない。

 

祖父の実家の裏手に沢が流れている。私の先祖はこの沢水を頼りにこの地に移り住んだのだろうと想像される。家の台所の板間の下にも沢水が流れていて、それで洗い物を行っていたと聞いている。

 

この辺りは山形藩との境であるため江戸時代には番所があって、私の先祖が番所足軽として取り立てられている。その記録が残っているため、1683年当時の先祖の名前が分かる。

 

「宮崎町史」には、この寒風澤という地に残る平家にまつわる言い伝えが掲載されている。

それによると、平貞能定義山に移り、その弟の平照盛という人が、寒風澤の近くにある大倉山という所に住んだとある。大倉山には実際に屋敷の跡が残っているそうである。

 

平照盛という人が実在したかどうかは私はまだ確認できていない。いずれにしても、その子孫を称する人たちが今の寒風澤に移り住んだのは寛永3年のことであるという。

私の本家もその中の一家として、江戸時代から今に至るまで山間部での生活を続けて来た。

 

ところで私の祖父は本家の長女の子供であり、祖父の母はよそから婿を迎えているため、今私が名乗っている苗字は女系のものである。婿の旧姓は早坂なので、私の男系の先祖を辿れば早坂さんとなる。升沢の早坂四家とつながりがあるかどうかは分からない。

 

祖父の実家にほど近い旧寒風澤分校にて。

金華山古道について(蛤浜まで)

 宮城県石巻市大街道という町の国道398号線沿いに、「金華山ラーメン」という古いタクシー会社の建物を改築した食堂がある。この店名は牡鹿半島の霊峰金華山との関わりに由来するというよりも、おもての道がかつて「金華山道」と呼ばれていたことから取ったのだろうと勝手に推測している。

 そこから398号線を女川方面に向かい、鰐山へ向かう登り口の手前まで来ると「金華山道標」という碑が建っている。この辺りは今では更地になっているが、以前は七十七銀行穀町支店があったらしい。この道標に「大金寺迄四十八丁」と記されている。大金寺とは金華山のことで、この地点から金華山までの距離を示している。鰐山への坂道が金華山へ向かう最初の坂となる。鰐山自体は標高70mほどのなだらかな丘のような山だが、渡波の祝田から続く牡鹿半島の山々に至ると、金華山行きは難所越えの連続となる。

 以前このブログで、祝田が生んだ戦前の法学博士角田幸吉のことを書いた。角田さんという家は現在でも角田幸吉が育った辺りにあるらしい。場所は祝田の大浜と言って、私の実家からだと万石浦を挟んでちょうど対岸辺りに位置する。石巻鮎川線が整備された現在から見ると一見外れた場所のように思えるが、昔は祝田から浜辺の道をずっと通って大浜まで行けたようなのである。(佐藤雄一氏)

 この大浜という場所が牡鹿半島の山々に分け入る起点となる。なんとこの海辺の浜から、ほぼ一直線に風越峠に向かって登っていったそうである。標高124m。垂直にも感じられる斜面。濃い緑の線がその道かと思われる。

   

 祝田から金華山へ向かう途中にこういうルートがあったことは以前郷土資料で読んではいたが、普段車で通るような場所ではないため、あまりイメージが沸かなかった。最近地元の郷土史家からお話を伺い、ようやく明確になった。地図で見ると、牡鹿半島の太平洋側へ抜けるには確かにこのルートを辿るのが最短距離であり、合理的であると思う。

 山を下りてから蛤浜へ向かい、そこからまた山へ分け入る。はまぐり堂を左手に見る一見なんてことない浜辺の道路も、れっきとした古道で、金華山へお参りするための道だったのである。

 私もごくたまに牡鹿半島方面へ車で出かけることがある。今では蛤浜辺りであればすんなりと着いてしまうが、これが明治頃までは全くお気楽でな話ではなかったのである。

 いや、今でも風越トンネルに至るまでの急カーブにはかなりのストレスを感じることがあるし(整備が進んでいるが)、反対側の佐須の浜から小竹浜方面に向かう道路に関しては怖くて一度も車で走ったことがない。(なお昔の陸路は、佐須の浜から山居という場所に登り、そこから小竹浜へ下りるルートだと思われる。)

 牡鹿半島の交通事情(陸路)が昔はどうなっていたのか長年気になっていた。地元民としては面白いテーマなので引き続き調べていきたい。

祝田の角田幸吉のことについて

地元が産んだ明治生まれの弁護士で「角田幸吉」という人物がいる。

 

wikipediaには単に「宮城県に生まれる」と記載されているが、角田が生まれ育った場所は石巻市渡波の祝田(いわいだ)浜という所である。牡鹿半島の付け根、サン・ファン館へ向かう途中にある集落である。

 

角田は私とほんの少しだけ繋がりがあって、102歳まで生きた私の曾祖母と親戚関係にあるらしい。明治29年の生まれなのでお互い同世代でもある。

 

家に祖父が記していた日記が1冊残っているが、その住所録に角田の東京の住所と電話番号が記載されていた。祖父は出稼ぎに行く機会が多かったようなので、何かあった時に頼りにしようとしたのかも知れない。

 

祝田浜は2011年の津波でやられ、今では復興した姿を見ることができるが、昭和の頃は牡鹿半島によくある山沿いの狭い漁村という感じで、言葉は悪いが大分魚臭い雰囲気の集落であった。

 

角田幸吉はそんな侘しい漁村で育った。若い頃は炭焼きの仕事を手伝ったりもしたらしい。

 

憲法学者清水虎雄が書いた「角田幸吉先生の面影」という文章がある。そこには祝田での角田の子どもの頃の思い出が少しだけ綴られている。人通りのない暗い山道を一人3キロも歩いて分校(渡波小学校祝田分校?)から帰ったそうである。

 

あの辺りの山々の様子は私も知っている。実際に歩いた経験はないが、それでも身につまされる感が沸き起こる。

 

「いつかこの浜から抜け出てやる」そんな思いを抱きながら勉学に励んでいたことと想像する。今でも石巻を飛び出した人間の中にはそんな例が多いのだから。

 

その後角田が法政大学法律科を卒業するまでのことを伺える文章は何もなく、想像するしかない。「末は博士」と考えていたか、それは分からないが、明治生まれの祝田の人がそんな野望を抱いたとすればかなり驚くべきことであると思う。地元の感覚が分かる者としては。

 

そして昭和18年、角田は本当に「法学博士」になった。弁護士活動よりも、大学講師の仕事の方が中心だったようである。

 

戦後になって、昭和22年に当時の宮城2区から衆議院議員選に立候補し当選している。その時は親戚全員が角田に投票したと聞いている。

 

昨年、仙台の古書店阿武隈書房で「石巻地方の歴史と民俗」という本を購入した。祝田浜の「両墓制」に関する資料を1冊手元に置いておきたいと思ったからである。

 

両墓制とは、遺骸を埋める墓とお参りするための墓を別々に設ける風習で、東北地方では非常に珍しいものである。おそらく祝田はもともと西日本から船で移住して来た人達で形成された浜で、その時に西日本の風習も持ち込んだものと思われる。

 

上記の本に明治期の祝田浜世帯一覧というものが掲載されていた。そこには曾祖母の父の名前の他に、角田亀吉なる名前もあった。この人物が角田幸吉の父なのかも知れない。

 

最後は何とか古本屋の話に繋げられた。ただ何となく、自分とちょっとだけ繋がりのある人物のことを記しておきたいと思っただけなんだけど。

 

※その後、角田幸吉の少し正確な経歴が判明(渡波町史より)。角田が生まれた所は大浜と言って、祝田からはかなり外れ、風越トンネル方面から万石浦の猪落という場所に向かい道を下った辺りである。父の名は角田兵四郎。幸吉は明治44年渡波小学校高等科を卒業した後は独学で大学に至ったとのこと。日々働きながらの勉学だったと想像する。

石巻にあった古本屋「三十五反」について(3)

三十五反のことをさらに調べたいと思い、この本を購入した。

「別冊東北学5 特集:壁を超える(2003年)」

 

この号に「追悼 櫻井清助」という記事があるのを知り、取り寄せたのである。

 

記事を書いた人は黒田大介という方で、90年代に櫻井氏の布施辰治研究を手伝っておられたらしい。櫻井氏と密接に関わって来られただけあって、氏の詳細な経歴を文章に綴っておられた。

 

以下、前回私が書いた記事に関して修正が必要な箇所のみ取り上げておきたい。

 

櫻井清助氏は昭和8年鳴瀬町で誕生した。新制ほやほやの石巻高校を中退している。その後の確かな経歴は不明であるものの、昭和26年に石巻を飛び出している。

 

最初は千葉県にある叔父の仕事を手伝っていたようだが、やがて東京の山谷で日々の糧を稼ぐようになったそうである。

 

昭和56年に石巻に戻り古本屋を始める。三十五反という屋号は仙台の図南荘さんにつけてもらったとのこと。

 

※私は宮城県古書籍商組合の組合員なので、図南荘という古本屋はもちろん存じ上げているが、私が石巻に戻った時にはすでに休業状態だったようである。

 

やがて平成8年に病気で倒れ、この時に三十五反も閉業したそうだ。

およそ15年という短い営業期間だったわけである。

 

6年後の平成14年に69歳で亡くなられている。

 

櫻井氏が手掛けた布施辰治研究や、豪放磊落な生き様のことについては私は語る資格を持たない。

 

私は氏から古本屋の魂だけを(それも勝手に)受け継いだ。

 

心の中で師と仰ぐ古本屋は何人かいるが、櫻井氏もその一人として仰ぎつつ、この石巻で古本屋という火を灯し続けて行きたい。

 

 

石巻にあった古本屋「三十五反」について(2)

以下「」内は「『弁護士布施辰治誕生七十年記念人権擁護宣言大会』関連資料」に櫻井氏が寄せた文章における記述である。


「1981(昭和56)年、わたしは郷里に三十年ぶりに帰ってきて小さな古本屋を始めた」

 

という記述が突然出て来た。とすれば、櫻井氏が石巻を離れたのは昭和26年頃になるので、学歴は不明なものの、20歳前後でこの町を離れているとして昭和6年前後の生まれの人となる。


「タクシーとトラックの運転手をして、アコギに小金をためて資金とした」


実は私も、石巻に戻ってからはしばらく働いて基盤固めをした。運転手の仕事ではなかったけれど。


「どうせやるなら一つ非日常的な空間をと心がけたので、比較的短時間で変わり者が集まって来た」


店内のあの独特の雰囲気は櫻井氏の計算だったらしい。


「年余にして広いところに移り、幼稚園の体育館だったとかでステージが座敷になっていたので…」


櫻井氏が座っていた帳場の後ろの方にそのような空間があったのを憶えている。
あの建物は古い倉庫か町工場を店舗に転用したのかと思っていたら、幼稚園の体育館だったとは。これで私にとって最大の謎が解けた。


「開店後少し落ち着いてから、東京時代に関心を持っていた鴇田英太郎について調べ始めた」「(鴇田の)活躍の舞台は東京である。わたしのホームグランドであった東京へ飛んだ」

 

やはり三十五反の店主は長い間東京にいたのである。おそらく神保町も回っていると思う。昭和20~40年代の古き良き東京を見ていることだろう。

 

ところで、ここで急に「鴇田(ときた)英太郎」という名前が出て来た。
櫻井氏が寄せている文章は、主にこの鴇田英太郎という人物の経歴と、布施達治との接点について綴ったものである。

鴇田は大正時代に東京で映画俳優・劇作家として活動した石巻出身の人物である。
石巻豪商の米穀商鴇田商店に生まれ、慶応大学中退後に映画俳優となり、創作活動に移った後昭和4年に亡くなったとのこと。

石巻の郷土本は結構読んできたつもりだったけど、こういう人がいたことはまるで知らなかった。

 

櫻井氏は鴇田英太郎のことを調べるために東京まで出向いて文献に当たったり、仙台で親族に直接話を伺うなどしてかなり積極的に動いている。
布施達治のことも同様に足を使い精力的に調査したのだろう。

氏がこれほど行動力ある郷土史家だったとは店に通っていた当時は思いもしなかった。
ただの頑固そうな古本屋のオヤジだと思っていたのに…。

 

※私が櫻井氏の店を知ったのは、指折り数えると開業から7年目頃のことになる。
 すでに当時の櫻井氏よりも、今の自分の方が古本屋としての業歴が少し長くなった。