以下「」内は「『弁護士布施辰治誕生七十年記念人権擁護宣言大会』関連資料」に櫻井氏が寄せた文章における記述である。
「1981(昭和56)年、わたしは郷里に三十年ぶりに帰ってきて小さな古本屋を始めた」
という記述が突然出て来た。とすれば、櫻井氏が石巻を離れたのは昭和26年頃になるので、学歴は不明なものの、20歳前後でこの町を離れているとして昭和6年前後の生まれの人となる。
「タクシーとトラックの運転手をして、アコギに小金をためて資金とした」
実は私も、石巻に戻ってからはしばらく働いて基盤固めをした。運転手の仕事ではなかったけれど。
「どうせやるなら一つ非日常的な空間をと心がけたので、比較的短時間で変わり者が集まって来た」
店内のあの独特の雰囲気は櫻井氏の計算だったらしい。
「年余にして広いところに移り、幼稚園の体育館だったとかでステージが座敷になっていたので…」
櫻井氏が座っていた帳場の後ろの方にそのような空間があったのを憶えている。
あの建物は古い倉庫か町工場を店舗に転用したのかと思っていたら、幼稚園の体育館だったとは。これで私にとって最大の謎が解けた。
「開店後少し落ち着いてから、東京時代に関心を持っていた鴇田英太郎について調べ始めた」「(鴇田の)活躍の舞台は東京である。わたしのホームグランドであった東京へ飛んだ」
やはり三十五反の店主は長い間東京にいたのである。おそらく神保町も回っていると思う。昭和20~40年代の古き良き東京を見ていることだろう。
ところで、ここで急に「鴇田(ときた)英太郎」という名前が出て来た。
櫻井氏が寄せている文章は、主にこの鴇田英太郎という人物の経歴と、布施達治との接点について綴ったものである。
鴇田は大正時代に東京で映画俳優・劇作家として活動した石巻出身の人物である。
石巻豪商の米穀商鴇田商店に生まれ、慶応大学中退後に映画俳優となり、創作活動に移った後昭和4年に亡くなったとのこと。
石巻の郷土本は結構読んできたつもりだったけど、こういう人がいたことはまるで知らなかった。
櫻井氏は鴇田英太郎のことを調べるために東京まで出向いて文献に当たったり、仙台で親族に直接話を伺うなどしてかなり積極的に動いている。
布施達治のことも同様に足を使い精力的に調査したのだろう。
氏がこれほど行動力ある郷土史家だったとは店に通っていた当時は思いもしなかった。
ただの頑固そうな古本屋のオヤジだと思っていたのに…。
※私が櫻井氏の店を知ったのは、指折り数えると開業から7年目頃のことになる。
すでに当時の櫻井氏よりも、今の自分の方が古本屋としての業歴が少し長くなった。