石巻市の古本屋 ゆずりは書房

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石巻地方の「板碑」について

宮城県石巻地方は中世の板碑が多い場所として知られている。

 

板碑といっても木の板切れに彫った碑ではない。石に刻んだもので、こういうような奴である。石巻では意識して探せば割と容易にお目にかかることができる。

この板碑というものは必ずしも日本各地に遍在しているわけではないらしい。残っている地域とそうでない地域があるそうである。石巻地方は板碑の群集地である。

 

石巻の歴史 第六巻」によると、石巻市内に残る最古の板碑は真野長谷寺にある文永二年(1,265年)に建立されたもので、最も新しい板碑は文禄三年(1,596年)の水沼に所在するものだそうである。つまり板碑の建立時期は日本の中世と呼ばれる時代と一致している。

 

板碑を建立した目的は当初は誰か特定の故人の慰霊であったようであるが、その故人と関係がない第三者を拒むものではなく、板碑がある場所はあらゆる人々の霊魂をあの世に送り届ける「霊場」としての役目を担っていたそうである(「中世の聖地・霊場」東北中世考古学会編)この点は江戸時代に入ってから普及した「お墓」とは異なる。

 

板碑の始まりを知るにはまず古代の霊場について知る必要がある。「石巻の歴史 第四巻」で三宅宗議氏が石巻地方における古代寺院の創建について論じておられるので、そちらを参考に板碑の登場以前の石巻霊場について記してみる。

 

東北の官立寺院は10世紀にはほとんど消滅したようであるが、平安時代に入り、主に密教系の寺院が石巻地方にも建立されるようになった。代表例を挙げると、上品山の上品山寺、中里の全正寺(現禅昌寺)、砂須浜山居の洞源院、第六天山の三国寺、金華山の大金寺、牧山の牧山寺等である。全正寺以外はみな人里離れた山上にある寺院である。

 

石巻地方の古代寺院の多くが山上にあるのは、つまりは比叡山高野山と同じ立地であるということである。これらの古代寺院は山中に奥の院を構える延暦寺金剛峯寺と同じような霊場だったのである。

 

霊場思想は浄土信仰とも関連がある。浄土はこの世を意味する「此岸」に対する「彼岸」であり、日常とは異なる遠い世界である。中世においてはそうした彼岸世界が人々の中で強く意識されていた。霊場に参詣することは浄土往生を望む人にとって大切なことだと考えられていたのである。

 

とは言え、霊場を求めて人里から遠い山中へ赴くのはやはり大変である。そのためか第六天山の三国寺はだいぶ早い時期に麓へ移転したようである。

そして古代から中世にかけての人々は容易に足を運べる身近な場所にミニ霊場ともいうべき場所を求めるようになった。それは有力者の墓であったり、経塚であったり、五輪塔等の石塔類であったりした。石に梵字を刻み仏そのものとみなした板碑もそんなミニ霊場というべき場所のシンボルであった。

 

江戸時代を前にしてこうした板碑が建立されなくなるのは人々の宗教観の変化とリンクしている。霊場を否定する宗派、すなわち専修念仏(専修とはそれのみを修するという意味)を唱える浄土宗や真宗法華経のみを奉じる日蓮宗といった鎌倉仏教の台頭である。これらの宗派では彼岸的要素よりも現世利益的な要素の方が強められていた。彼岸世界という考え方は室町時代に入ってから急速に縮小するそうである。やがて死者は遠い浄土へ赴くのではなく、身近なお墓に入り眠り続けるという考え方が広まるようになる。今では高野山でも墓地化が進展しているそうである。

 

石巻地方では室町時代から戦国時代にかけて曹洞宗の寺院が多く建立されるようになった。再び「石巻の歴史 第四巻」で石巻の寺院史をひもとくと、ながらく天台宗の勢力圏であった石巻地方の湊に曹洞宗の松岩寺(現松厳寺?)が建立されたのが15世紀中頃で、同じ時期に湊の法山寺と真野の真宝寺も建立されている。これらもまた曹洞宗の寺院である。16世紀に入ると曹洞宗の勢いはさらに増し、16世紀後半になるとついに石巻天台宗寺院は衰微に至ってしまう。日本人の宗教観の変化は石巻の寺院史からも伺うことがきるというわけである。

 

実を言うとつい最近まで 板碑など私も全く興味がなかった。だって見ても特別面白いものではないから。

しかしながら板碑は中世の石巻に生きていた人々の宗教観を現代に伝えてくれるものである。中世の石巻の人と繋がれるモニュメント、そんな意識で今後は板碑と触れ合ってみるようにしたい。