石巻市の古本屋 ゆずりは書房

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石巻市渡波の大和田地区について

国土地理院ウェブサイトより

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

 

石巻線に乗り渡波駅から稲井駅へ向かう途中で狭いトンネルを抜ける。名を「大和田トンネル」という。トンネルを稲井駅側に抜けた先にある集落が「大和田」という地区で、トンネル名はそこからの由来である。

 

私は高校生の時に渡波郵便局で年賀状の配達アルバイトをしていて、沼津地区の配達を担当していたので、途中にある大和田地区の配達も行っていた。もちろん赤い自転車を必死に漕ぎながらである。

 

この大和田に人が住み始めたのはわりと古い時期らしい。昭和34年に発行された「渡波町史」では、大和田で最も古い家が七代を経過していることからおよそ300年位前まで遡れるであろうとしている。ざっと17世紀(1600年代)頃であろうか。

 

渡波町史には、明治20年に郡長あてに出された公文書の一文が掲載されている。そこには「戸数ハ僅カニ六戸」と書かれている。大和田は現在でもそれほど多くの人家がある場所ではない。

 

今の土地感覚からすると、沼津地区や沢田地区、あるいは井内地区と同じような地理的環境にあるので、大和田地区も旧稲井町に含まれていたのではないかと思えてしまう。しかしこの地区は旧渡波町に含まれていた。明治20年の公文書にも「渡波(略)トハ日常市街ニ往来シ一団体の地勢トス」とある。

しかし渡波と大和田の間には牧山がある。平地を経由して行き来しようとしたらかなりの迂回を強いられる。町との往来はたやすいことではない。先にあげた文書でも「牧山山脈ニ阻マレ交通究ワメテ不便」であるとしている。

 

実際に、町村制が施行され稲井村が設置された時には稲井村への併合希望も出たらしい。しかし当時の渡波村が「大和田は渡波である」と強く主張したようである。そこには何か歴史的な事情があったと思われる。

 

私はなぜ大和田が稲井ではなく渡波に含まれていたのか、またなぜこのような町から離れた山裾の不便な場所に古くから人が住むようになったのか不思議に思っていた。

 

ところで、今「稲井」と呼ばれている場所にはかつて「古稲井湾」という入江が広がっていた。今でも稲井の大部分は農地で、集落は山の麓にしか存在しない。

 

縄文時代前期は現在よりも温暖で、その結果極地等の氷が溶けて現在よりも海水面が高い位置にあった。これを「縄文海進」といい、当時旧北上川の河口はほとんど入江で、そこから稲井方面に海水が流れ込んでいた。

 

海面上昇シミュレーター | JAXA Earth Apps

 

というサイトを用いると、海面の上昇具合で海岸線がどのように変化するかを視覚的に確かめることができる。海面高さを8m位に設定すると、ちょうど沼津貝塚の辺りがかつて海に面していたことが確かめられる。

 

現在の大和田地区のすぐ前もかつて海だったことが分かる。つまり大和田が稲井ではなく渡波に含まれているのは、稲井の他の集落との間が海で阻まれていたためではないだろうか。

 

上記の海面上昇シュミレーターで確認すると、かつての大和田地区が少し湊のような地形をしているようにも思われる。つまり大和田に最初に住み始めた人は海の住民で、移動の際は陸路ではなく専ら舟を用いていたのではないだろうか。大和田という地名もわだつみの海が由来なのではないだろうか。

 

古稲井湾がいつ陸地化したのかはさだかではない。現在の集落のあり方から考えると、比較的最近(中世?)まで海面もしくは湿地が存在していたのかもしれない。しかし古稲井湾の名残は今でも確認することができるし、東日本大震災の折にも稲井のかなりのエリアが水に浸かってしまったようである。現在では海に接していないにもかかわらず。