石巻市の古本屋 ゆずりは書房

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宮城県牡鹿半島の歴史について

宮城県の東端に「牡鹿半島」という太平洋に突き出た半島がある。

 

この半島は行政単位としては石巻市と女川町に所属する。起伏が大きく平地が少ないリアス式海岸から成る半島だが、あちこちに小さな浜辺があって、そこで人々が生活している。それぞれの浜へ行くにはアップダウンの激しいつづら折りの道を車で向かう必要があるため、だいぶ骨が折れる。それでも私の子供の頃と比べるとだいぶ道路が整備された。かつては陸路ではなく主に船で浜から浜へ移動したのだろうが、私は昔からこんな不便な浜辺にどうして人々が住むようになったのだろうと不思議でならなかった。

 

この牡鹿半島はかつて「遠島(としま)」と呼ばれていたらしい。私は大正14年生まれの老女(女川町塚浜生まれ)から「昔は半島の方を遠島と呼んだ」という話を直接聞いたことがある。だから少なくとも戦前昭和期までは遠島という呼び方が存在したのだと思う。

 

1772年の「封内風土記」には「牡鹿郡海浜、女川、十八浜、狐崎の三党を遠島と号する」と記載されているそうである。江戸時代中期には遠島は牡鹿郡の一部だったわけだが、近世初頭においては遠島は牡鹿郡とは別の行政単位だったらしい。1633年の「伊達政宗領分郡郷目録案」という文書に「郡のほか遠島」という記述があり、各郡と遠島が別々であったことが伺えるのである。また伊達家文書「慶長五年漆請取日記」という文書に「ものを(桃生)中」「おしか(牡鹿)中」という記述と並んで「とうしま(遠島)中」という記述があって、牡鹿郡と遠島がそれぞれ別のものであるように書かれている。推測するに、遠島という領域は戦国時代にはすでに存在していたのではないだろうか。

 

伊達政宗領分郡郷目録案」には遠島が五十四の浜から成るとある。実は牡鹿半島の浜の数は三十六である。残り十八の浜は桃生郡の浜であろうと推測される。つまり遠島とは牡鹿半島全体を指すのではなく、各浜の漁村だけを抜き出して独立した領域として編成したものだったらしい。

 

牡鹿半島の付け根、祝田浜という場所に洞源院という寺がある。この寺は1061年の創建だが、明治初期までは今の場所ではなく、少し離れた山居という山の上にあった。そこに戦国時代の天文7年に建てられた石碑があり、「陸奥牡鹿郡楊沢山住持比丘密伝云々」と書かれている。寺の所在地を牡鹿郡としており、遠島とはしていない。山居が山上の霊場であり、漁村ではなかったためであろうか。

 

遠島という領域はいつから存在したのだろう。大石直正「奥羽の荘園公領についての一考察(中世北方の政治と社会)」によると「遠島の成立時期を推定する手掛かりとなるような史料は、まったくない」とのことであるが、成立時期は中世初期ではないかと推察している。その構成民は、漁業や狩猟を中心とする非農業的な活動に従事する人々であったろうとしている。つまり現在牡鹿半島の浜辺に住んでいる人々の祖先は海の民であり、その起源は中世初期まで遡ると想像すればロマンが感じられる。

 

浜の漁村が郡とは別の行政単位で編成された理由として「弘前市弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍」というサイトでは「こうした「浜」とか「島」という特殊な行政区画が設けられたのは、そこを普通に「郡」には編成できない何らかの要素が存在したからだと思われる」と説明している。さらに「この地域は、山の民・川の民・海の民が広く存在する地域であって、普通の日本社会とは異なり、農業というよりは非農業的な生活の色彩が濃い、たとえば交易などに依存する度合いが強い社会を形成していたのであろう。」としている。

 

東北を代表する海の民は津軽の安藤氏(安倍氏とも)である。実は牡鹿半島の給分浜にある見明院の「風土記御用書出」という史料(ただし信頼性は低いらしい)に「先祖安藤太郎重光と申す者これ有り、俗名にて牡鹿遠島先達職相預かり罷り在り、その後右親族安藤四郎先達職を奪う可くの企てこれ有り…」という、津軽安藤氏との繋がりを彷彿とさせる記述がある。牡鹿半島の浜辺に最初に住み着いたのは津軽の安藤氏の一族であったかも知れないと想像すると、いっそうロマンが膨らむ。

 

牡鹿半島の風越峠へ向かう道。今は真下に風越トンネルができたため通行止めになっているが、トンネルが出来る前はこの道が牡鹿半島へ向かう主要道だった。柵の向かいは土砂が崩れたままになっている。私がスマホのカメラを向けたら鹿が逃げて行った。