石巻市の古本屋 ゆずりは書房

宮城県石巻市で古本の買取をしています

石巻の護良親王伝説はなぜ生まれたのか

宮城県石巻市の湊という地区(私が住む隣町)に南朝伝説が伝えられている。後醍醐天皇の皇子護良親王が密かに鎌倉から逃れ、船で石巻に辿り着きそこで一生を終えた、その場所が現在の一皇子神社であるという内容である。 

 

「奥羽観蹟聞老志補修篇巻之九」という江戸時代の地誌に、一皇子大明神社に関する項目がある。そこに「伝えて云わく後醍醐帝延元中、帝之皇子乱を避れ本邑に在り。崩御之後其霊を祭り一皇子明神と称す。」とあって、後醍醐天皇の皇子が湊村に来て生涯を終えた旨が記されている。だから少なくとも江戸時代には南朝に関する言い伝えが石巻に存在したことが伺えるが、後醍醐天皇の皇子の誰(皇子は8人いる)が石巻に逃れて来たのかについては書かれていない。

 

この言い伝えを取り上げて書籍にまとめ世に発表したのは高橋鉄牛(1866-1939)氏である。氏は宮城県師範学校を卒業して教師となり、明治37年石巻女学校を設立し教育者として活動する傍ら、ライフワークとして石巻郷土史研究を行った。

 

かつての石巻郷土史研究家にはなぜか学校の教員をしている人が多かった(今ではどうなんだろう?)高橋鉄牛氏はその走りと言える人物である。

 

奥羽観蹟聞老志補修篇に記されている「帝之皇子」が護良親王であると初めて公けに主張したのはどうも高橋鉄牛氏らしい。

 

高橋鉄牛氏は、大正15年に発表した「護良親王と大忠大義の淵辺義博(この本は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる)」において、「大塔宮護良親王は、鎌倉の土の御牢に於て、足利の被官、淵邊義博、弑逆の難に、御薨去遊ばしたと傳へたる国史は、全く誤謬を書(ママ)いたものであって、實際は、奥州牡鹿郡、湊なる、淵邊の館に於て、畏くも、御病気に罹らせられ、建武弐年十一月廿四日を以て、御薨去遊ばしたるに、相違なしと主張する」と記載している。

 

また同書では「即ち世の所謂、學者史家の所説が、必ずしも、正鵠を得たものとのみ信じ難い所もある」とも書いている。つまり石巻南朝伝説を単なる言い伝えとして紹介するのではなく、歴史的事実として主張しようとする姿勢を見せているのである。

 

当時の時代背景についてちょっと考えてみたい。

 

高橋鉄牛が「護良親王と大忠大義の淵辺義博」を発表した大正15年はちょうど長慶天皇を皇統に加列する詔書が発布された年である。南北朝正閏論と言って、南朝北朝どちらが正統の皇統なのかという論争が明治時代に起こった。当時日本の各地で南朝に関する議論が盛り上がりを見せたのである。

 

長慶天皇という人は南朝第3代天皇に当たるが、永らく在位が認められず、大正時代に入ってからようやく在位認定の詔書が出ている(詔書を出したのは当時まだ摂政だった昭和天皇)。

 

当時の政府は長慶天皇の陵墓の場所を定めようとしたが、その候補地はここであるという主張が日本全国から寄せられたらしい。

 

昭和に入り青森県の阿保親徳という人が、南朝天皇陸奥国に潜入したとして地元で長慶天皇遺跡調査を行っている。戦前の東北には南朝と当地を結び付けようとする動きがあり、高橋鉄牛氏の主張も同じ流れの中にあったものと考えられる。

 

「いしのまき散歩(二佐山連 平成2年)」には、一皇子神社について「以前は樹木につつまれた小さな祠に過ぎなかったが、高橋鉄牛氏が護良親王説を主張してから現在のように神社らしく立派になったという」とはっきり記載されている。もっとも現在では、石巻南朝伝説を有名にしたのが高橋鉄牛氏であるということは忘れられているようである。